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第1回じゃがいも送りつけおじさん実施についての所感

「一回やってみてください。次にやる時は二回目になりますから」だった

また悪ノリで一点突破して分岐するルート

そもそも「北海道だから、じゃがいも送りますわ!」という話は以前からあって、実行に移していないだけだった。イメージすることと、具体的に行動することの間には、当然大きな壁がある。

その壁を、連想と悪ノリで一点突破することが、人生によくある。今回もそういう感じで話を進め、そういう話になっていると流布し、別経路でも送りつける流れになった。こういうの大好き!というか得意というか、手癖がついている。慣れている。まかせろ

(まーた騒ぎ出した…と呆れつつ、出費を許可してくれた奥さんに感謝)

北海道から出られない

北海道在住なので、自分がネット上で相手してもらっているコミュニティ・界隈には、直接出現することができない(対人恐怖症もあるが)

それが、自分にとっては、コミュニティへの参加についての大きなハンデではあるものの、別にここ1年2年で始まった話ではないので

こういう考え方になってきた。俺は「不在」を武器に、とまではいかなくても「不在」を属性として許容して、喜んで遠回りする。不自由であることを手札の一枚にカウントする。

てか自分一人がAirDoで、とかち帯広空港から羽田に往復するお金で、じゃがいもどれだけ送ることができるのかという話ですよね。

マンモスとしてのじゃがいも10kg

通貨の性質の一つに、腐らないということがある。この通貨の登場で富が、一個人によって無限に所有することができるものとなった。

ということは、その前の世界では、有り余る富、人一人分を超えた資源は、分配しなければロストするルールだったということだ。

じゃがいも、一人で一回で食う量には限界がある(道民でさえそうだ)

だからじゃがいも10kgが出現すると、必然的に分配と、そのための場が設定される。これは原始的な祝祭の一様式「マンモス狩ったからみんなで食おうぜ」に近似する(そう考えると、送り主の出現不可能性もまた、神話素として機能しうる?)

「お金」の利鞘を抜く

仕事で頭がパーになった時、料理する元気もないからって近所のセコマで適当なメシを2人分買っただけで1500円前後になるわけですよ。

それ、それさ…2回我慢して自炊したら、じゃがいも10kg送れるでねえか!!!

まあ重量があるので送料が高いのだが、これは逆に大量(ダンボール2箱以上)だと、むしろ割安だということだし、

さらに今回は間に合わなかったけど、スーパーや郵便局のお歳暮セットを利用したら送料無料だったっぽいんすよ(ただし配送時期の融通が効かない)

こういうの、現代社会のバグじゃないですか?いやもちろん、コンビニの利便性や商品開発コストに喜んでコストを支払うし、送りつけられた側の調理コストも無視できるものではないのだけど

つまり「所有」とか「自他」という枠組みを一瞬オフにするだけで、自分が属する集団に対して割安に価値を提供できる。

かつ、それを面白がれるという点に、自分の独自性があるということなのかもしれないと思った(だから他の人にもこれをやれとは決して言わない)

贈与かというとちょっと違う

最初はこれを贈与論の観点から論じようと思ったけど、なんか実際にやってみて「あんまり贈与じゃねえなこれ」という気持ちがしてきた。贈与は自分と他者との関係性についての行為であり、もうちょっと雑に、自他の境界をもたない態度の方が実感に近い。すっごい適当なこと言うと、じゃがいもを送ることは、ほぼ自分で食っていることに近い。そこで完結しているから見返りもいらん。

だって、先述の通り、俺と家族が食えるじゃがいもには限界があるんですよ。人間のスケールを超えた分は分配しないとロストという感覚が、通貨によって無効化されたことで人類は進歩したが、その弊害もあるわけで。

理不尽な社会に対して、理不尽な豊穣で狂い返す態度、今もっとも政治的な行為としての生存と、それを肯定するじゃがいも。そのために現代で最強の生存兵器であるインターネットの利用…みたいなことをぼんやり考えてはいるけれど、ここはまだまとまっていない部分なので割愛。

他に誰かじゃがいも欲しい人いる〜???

ということで(?)このnoteを読んだ人で、じゃがいも10kg超を送りつけられて迷惑じゃない人がいたらTwitterのDMかなにかで声かけてください。たぶんあと3先くらい送りつけることができると思います。よしなに!

2022/12/18追記:今後のご連絡分については、来年の12月以降になります!

2023/12/29追記:またシーズンになったら別途Twitterかnoteで告知します!


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