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言えない感想・気絶するフェアネス でち日報2023/08/12

土日祝日が関係ない生活を送っているので、昨日は在庫管理システムの挙動を修正して、日次作業を進める予定だったがダメだった。

途中まで読んでた本を一気に読み切ってしまった。それだけ大変な内容だったのだけど、それを体感するには前もって用意しておく知識が多くて、そもそも難しくて、途中でたびたび「これ何の本だったっけ?」となった。

こう…なんと言ったらいいのか、いや、又聞きで人に伝えちゃいけないような、でも言えないことはないっちゃないんだけど、そのためには然るべき手順というものがあるような。あるいはちょっと期間をおいたほうがいいような。

むしろ、この本がすごいと勝手に俺が思ってるだけの可能性が高い(Amazonレビューも一通り読んだが同種の指摘がない)ということは、正確に書かれた内容を読んだのではなくて、なにか、この本の内容によって浮き上がってきた幻みたいなものを読んでしまったという表現が近いかもしれない。

それを人に伝えることができないならどうする?その『内容』が反映された暮らしを送っていけばよろしい。荷が重いな!

こういうことばっかり考えて生きていきたいものだけど、一方で事務仕事の楽しさと、お給料のもらいやすさも有難い。先人たちは二足の草鞋を履きながら、徐々に快楽労働(そんなものがあるの?)へ移行していったりしている。

「天上と大地の両方が揃ってこそ」と、深夜に国内のキルケゴール研究者が邂逅するという奇跡のTwitterスペースで話題になったのを思い出す。

エゴサする作家さんだから、Twitterであまりものを言うとよくないと思っているが、noteなら大丈夫だろう。杉浦次郎作品で俺がいつも感じることは「フェアネスこそが最大の狂気である」ということだった。

そのフェアネス、公正さも、論理的な根拠をもつ最善策(打算)であるということが今回の「神引きのモナーク」で解説されていたが、それは単に、論理的に根拠立てることも可能であるということに過ぎない。

実生活にはマンガのような解説シーンはない。そこでフェアネスはだいたい瞬発的に発揮されなければならない。その速度を出すには論理的なチェックを走らせる暇がない。

甲野善紀が番組で技を披露した時に言っていたことに「意識して技をかけるのは怖い。そこで一瞬気を失って技を出す」ということがあり、当時は何言ってんの???と思ったが、今はちょっとわかる。

フェアネスが発動する瞬間もまた、ある意味で気を失っている。意識してフェアネスをしようとすると、遅いし固い。口を滑らすような、うわごとのような、あるいは何か別のものが通りすがりに取り憑いたような、そうした速度でフェアネスが起こる時、意識はその制御を放棄している。

深夜に作業通話したいと思うものの、家族が寝てるので声が出しづらいという場面がある。こういう時、寝室と隣り合った居間とは別の、作業専用の書斎めいたスペースがあったらいいな〜と思う。

それで思い出したけど、家とは別に事務所を借りて、そこで仕事もろもろをしながら、カフェとして営業することを夢見ているのだった。

当初はお金をとったらダメでは?と思ったが、「お金を払わなくてもいていい」という建て付けにして、そういう何となく常識から逸れたものに対して警戒心を抱く人たち(真っ当だと思います)は、単なるカフェとして出入りしてもらえればいい。っていうか、このスタイルは普通に地元に先駆者がいるな。

でもそれを実現させるためには、困るくらい売上が出て、かつ余計なことができる余裕がなければいけないので、難しい。なんらかの形で因果関係を捻じ曲げなくてはならず、その力は、でちお君爆誕で使い切ってしまったんじゃなかったっけか。

そういう夢や妄執と現実を混ぜ合わせて、今日も進捗や進捗ならざる何かを出していくぞ〜



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