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あらゆる悪徳は過程であることによって生じる(のか?)【おじさん小学生の譫言vol.24】

可能な限り先鋭化すると、悪意や負の感情も清らかな人徳になる予感がある。とすれば、それを妨げているものは何か?

死ぬほど怠けたい

自分で決めたことができないクセに、全てが都合よく運ばないと不満を覚える。ほとんど幼児に近い全能感と、現実の齟齬に苦しむ毎日である。

意思の力が弱い。体力がない。色んな理由が考えられるが、40歳を前にしてなお「最小限の負担で最大限の利益をただちに得られるのでなければ死にたい」と考えてしまう、この心根自体が問題なのだということも分かっている。

そこでこの態度を、もっと極端に強めていこうと思う。もっと真剣に怠けまくって、もっと真剣に都合の良すぎる人生を目指す。そんなことが可能だとしたら、一体どんな姿勢になるのだろうか?

車窓を眺めるような境地

怠惰とは「何かをせねばならぬ」と一瞬たりとも感じたくないという姿勢であるとする。何かをせねばとさえ思わなければ、客観的には重労働でも構わない。

あらかじめ自分で決めた項目、ルーチンを消化するというやり方は自分に合っているようだが、いかんせん途中で息切れしてしまう。ということは、有限な何かが頭の中にあって、それを消費しつづけ、最後には枯渇してしまうということなのだろう。

その何かに縛られることが許せない。俺はもっと怠惰の限界に挑戦したい。かといってドーピングし続けるには若くない。

その有限な何かは「意思力」だと言われる。なんらかの判断を下すことで摩耗し、最終的にはなんらかの判断を下すことができなくなる。この話題については昨日も書いたので割愛する。

というわけで禅的にルーチンを消化する生活を目指すことにしたのだった。車窓から景色を眺めるように、ルーチンを「やる」ものとしてやる自分を眺める。

ただ、どうやら「有限な何か」は意思力だけではなさそうだ。もう一つは「感情」であると思われる。

考えることと感じることを怠けたい

感情は脳への刺激を伴う。あるいはその刺激自体が感情なのだろうけど、その発生が生理的な化学反応に由来しているとしたら、液体電池のように、ある時点から反応は落ちる。

その反応を回復させるためには睡眠なのだが、どうやら日中の仮眠は、個人的にはトータルでの睡眠効果を低下させることが分かってきた。

だからギリギリまで粘って、それから就寝する。つまり、それまでの時間は回復なしで全てのタスクを終わらせるのでなくてはいけない。しかも一切の負担を感じることなく。

負担とは思考と感情である。ならば、何も考えることなく、何も感じることなく一日を過ごすことが最適解になるのではないか?

怠惰だけではないもう一つの悪徳

それが実現しない理由は、自分が抱えている悪徳が怠惰だけではないことに由来する。怠惰なだけであれば、そもそも何かをする必要がない。

もう一つの悪徳は「強欲」だ。自分がしたいと思ったことは全てしたい。それは不可能なので(不老長寿とか個人的な歴史改変とか)、現実的に可能な限り全てしたい。

一つの分野に絞って何事かに取り組むことができない。何かをしている最中はずっと、他の分野のことをしていない自分が憎い。そして、そのような偏った認知を捨てられないという自分の愚かさをこよなく愛している。

じゃあ、そこまで言うならば、これも怠惰と同様に極端な形にするとどうだろう?もっと欲しがって、もっとやろうとするのであればどうなる?

真剣に怠惰で強欲ならば、執着してられない

「自分でやろうとしない」ということになる。自分ができるかどうかという有限性に縛られること自体を拒絶するのでなくては、真に強欲であるとはいえない。

自分ができる必要のないことを、それでもやるのである以上は、全てはできなくても一向に構わないのでなくてはいけない。

あらゆることが一切行動できないし、実現しなくてもいいのであれば、無論、その通りになる。何の意味も何の結果も期待できないまま、人間的な感情の残滓として、日々のルーチンとタスクを消化していく(という自分を車窓から眺める)

そして何も覚えておらず、何も語らないのであれば、真の怠惰と強欲は完成する。

つまり顕現は負傷として行われる

古代の日本語における「ひかり」とは、あのまばゆいものを指すと同時に
「何かが起こった跡」という意味でもあるという。

まずはじめに、人間が感知することができない何事かが発生し、その痕跡としてやっと、人間が感知できるもの、いわゆる光が生じる。という解釈らしい。

形としてはそういうものに近づいていくことになるだろう。他者から観測不能な状態が本来であり、このように、何事かを言い表したり、伝えようとすること自体は、そうした見えないものの痕跡である。

あるいは、理想の状態から逸脱した時に、事故的に、あるいは受傷的に発生するものが、文章なり作品なりとして観測可能になる。

悪徳の先鋭化を妨げるものについての備忘

結論らしきものが出てきたあたりで、今日は論じ切ることができない話題についても書き留めておこうと思う。理論上はそのように悪徳を先鋭化することができるとして、それを生活世界において妨げるものは何か?

認知の領域においては、それまでの経験から導き出した「こんなもんでええやろ」という判断である(ここでも意思力は消耗されている)

あるいは「そこまではしようと思えない」と言い換えることもできる。誰でも全ての他者の上に絶対的に君臨し続けつつ寝食を必要としないテレポート可能な不老不死者ではない。

そうした現実の持つ有限性にいたぶられた経験から、羹に懲りて膾を吹くかのごとく、自分の有限性をあらかじめ狭めるという態度は感情的な消耗を防ぐための常套手段ではある。

では、人生のある時期において最適解であった処世術を解除するためにはどのような具体的な物理行為が可能だろうか?そこには一度自分でかけたロックを外すための、非常に煩雑で時間のかかるプロセスがある。そうでなくては、思考と感情の一貫性はおろか、自己同一性も保てなくなるだろう。

自分で建てた「関所」に伺いを立てて、それを突破すること。その事務処理を自覚的に物理的に行いつつ、しかし感情と意思を増幅させてぶつけることはしない。淡々と、何の感想ももたず行う。本来なら、こんな文章を書いて殊更に強調もするべきではないだろう。

この「妨げるもの」について、今日は論じ切ることができないとしたのは、まだ実践が伴っていないからである。理屈のどこかが間違っている可能性が(他の部分同様)大いにある。

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