見出し画像

話すこと・書くことに、思考が依存している

よっぽど長文をかく筋力が衰えていたようなので、今後は雑に、なにかしら書く頻度を上げたいなと思っています。

1.noteは編集できる

Twitterに慣れすぎてしまった。だからnoteの記事という形式で書いてみても、文章の呼吸というか区切りが連ツイのままだ。

それでもツイートとnoteで大きく違う部分に、投稿するまでのインターバルがある。

ツイートをしばらく下書きで寝かすということはないし、最後まで作って初めて、必要のない段落がnoteでは処理できるが、連ツイ含めツイートはそういったものを編集しづらい。

2.たくさん書けばいいわけではない

そもそもが、noteを書いていた時期にしても、ちゃんと全体の構成を考えてからものを書いていたわけではなかった。あれよあれよと脱線して、最後にそれっぽいところで終える。というやり方しかしていなかったので、これが果たして「文章」として最低限の条件を果たしているかが疑わしい。

もう少し前の頃は、謎に「毎日1万字書く!」と言ってGoogleドキュメントに何かを書きまくっていた。残されたのは意味不明な文字列と腱鞘炎だけだった。

3.書くのは好きだが読み直せない

とはいえ、自分が文章を作っているときの思考のうねり自体は、一人遊びとしても充分に採用できるくらい快い。

わたしが過去のもの、他人になって切り離されて落ちていくのを感じる。自分が次々と死んでいくことによってのみ生き延びていける。なんかそういう動的平衡めいた錯覚を、インスタントに得ることができる。

でもそれって、読んでくれる他の誰かのことをちっとも考えていない態度なわけで、しかも「読んでくれる他の誰か」には、未来の自分自身が含まれており…

そういうわけで書いたものについて、読み返すことがほとんどない。

4.言った自分にビックリする

スペースなどをやると、どうも偉そうに何事かを分析したり意見したりしてしまいがちなのだけど、実は毎回、自分に対して驚いているということを、白状しておいたほうがいいかもしれない。

「俺こんなこと考えてたの!?」となっている。つまり話しながら考えている。いやむしろ、話すことで(やっと)考えていることに値する。という感覚が強い。

それは文章をしたためている時にも同じで、書いて初めて、こんなことを考えていたのか!たしかに、なんか先日、一瞬そんなことを思い浮かべていたことも、あったような気がしなくもないな…という状況に頻繁に陥る(今もそう)

5.???

だから書くこと・話すことは、痕跡を経由して還元されるという、主観的な循環に回収されつつ、サイクルの外に漏れ出た視覚情報と空気の振動が、廃棄された他者の名残や前兆として解読されうる。

ヒグマの糞、鉄砧雲、それどころか、読み取るだけの意味すら持たぬ、数秒だけの湿った風、車道脇で全滅していた蜂の群れ、何も期待せず、何かを意図する主体を持たず、ただ開かれているだけの書物として、世界に参画する時、死んだはずの痕跡が、まったく別の姿で息を吹き返すことがある。

6.急にどうした

話すことと書くことは、自己完結から漏れることを許容する。ということは、その逆も然りでありまして、他者とも自己ともつかぬもの、中立だとか中性だとか言われる(誰かは「うなぎ」と呼んでいたりする)ものが混線してくることも、ままあるわけですよね。

それは何も特別なことではなく、こんなこれみよがしにやる下品さがあるかどうかは別として、どんな人も話し・書く時に、制御できないものの力や有り様を感じていると思っていて

そのことを、ふたたび忘れていたことに気づくこともまた、話すことと書くことの危うい楽しみかもしれません。という話で…うまくまとまった感が出てますでしょうか?



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?