でち日報2024/03/30

昨日は大雨で家から出ることなく過ごした。事務所じゃないとまともな進捗は出せないが、連絡待ちの業務が多かったので大勢に影響なし。

ツイッターをチェックしなくなって数日経ち、特に困り事はない。人に見えるようにものを言う機会が減ったが、そもそも、独り言をあまりに気軽に衆目に晒すことに、慣れすぎてはいなかったか。

内省にかける時間が増えると、抑え込んでいた不調が表に出てくるようになった。極端に何もできなくなるということでなければ、長期的には継続して発散するのが良いだろう。実務のためにカフェインで横面を張る日々である。


NotionのInboxから12月に見た悪夢や、読んでも意味がよくわかりきらなかったダナ・ハラウェイのインタビューなどを振り返り、3ヶ月経った今、方向性としては良い感じになっていると思う。

社会の不公正に対して、別の不公正、それも僅少な個人の不公正をぶつける。実際はぶつけるというほどでもなく、砂粒のひとつを、その巨大な表面に添え付けるという程度のことが、言うまでもない無価値と、得体の知れない汚染とを両立させる。

そのような抵抗の足場となる情報技術は、言い逃れのしようがないほどの富の集中によって成り立ち続けている。底面では人間のひとつひとつの生命が、血とは別の形で流れ出ることによって捧げられている。結果的に、殺さないために殺しているような、越権行為としての選択の不誠実がある。

目を背けるのでもなく、耐え難い直視をするのでもなく、気配を消してしゃがみこんだ淀みから薄目でぼんやりと眺める。それは渡世のために与えられる形とは別の、頼まれもしない邪悪を実践することでもある。悪の矜持をもつことに近いが、そこまで一貫性もない。


何を言っているんだという感じだけど、重要なのは、こうしたうわ言が、なんらかの行為と判断を伴っていることである。

意味不明の文章を作ることが、仕事の進捗につながり、心身を健全にするのであれば、あとはその内容が伝わらないままでありさえすれば無害である。

このような類のことを、個別の内容として閲覧開始する操作なしに見せることは、今思えば端ない振る舞いだったという反省がある。



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