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「功徳のオープンソース」を幻視する 2022/12/27

よっしゃ〜!リクエストをいただいたのでnoteにまとめるぜ!と思ったら、図らずもいま読んでる本の感想文にもなった。感謝です!

徳はどこに「積まれる」のか

もちろん「徳を備えた人」とか「有徳の士」という表現にみるように、その人物の上に(背中とかに?)「徳」と呼ばれるなにかが積み重ねられるイメージはある。

だけど、こうした属人的なイメージを採用してしまうと、たとえば徳の高い振る舞いをしたところで、結局自分のため、自分の何らかのパラメータ上昇のための振る舞いである、という解釈を回避できなかったんですよね。

これがなんとかならないか…つまり「遠大なだけで、どうせおめえの損得勘定だろ?」という自己批判に反論するにはどうしたらいいだろう?という問いに対して「オープンソース」というものを比喩として採用するのはどうだろうと思ったわけですよ。

それはもう完全にこの本の受け売りなんだけど、冒頭で、限られた自分のリソースを嬉々として、オープンソースと呼ばれる「誰でも参加して発展に寄与できるプログラムコード」に捧げている、辺境の少年が登場するんですね。

そして同時並行で読んでるこの本の第2章が、三劫成仏(果てしない永遠の時を輪廻転生を繰り返して達成される成仏)を批判する意味での即身成仏(ただちにこの身をもって成仏する、成仏RTA)について書かれていて、あ〜〜〜なるほど〜〜〜となった次第です。

なにがなるほど?

「徳」というなんか知らんが、なんぼあっても困りませんからねというパラメータが、人それぞれに設定されるのではなく、社会的な公共財に設定されるパラメータだとしたら

公共財の徳の上昇に寄与する行為は構造上、その人の、少なくとも直接の利益にはなりえない。

もちろん寄与した本人が、社会的な公共財から恩恵を預かることはできますが、その価値提供は、需要と供給に基づいた取引のような一対一の関係性から横溢している。簡単に言えば、そこにタダ乗りできる他人が生じるわけです(だから公共財ではある)

その時、公共財の徳が誰によって積まれたかということは、他人にとってはあんまりどうでもいい。ということは、寄与した人間の徳というものは、寄与したのがその人だと認知された場面において限定的にしか作用しない。

「いや、寄与した本人の気持ちがスッキリする効果を無視すな」という声も聞こえてきますが、それを認めた上で、でも、属人的に解釈された徳の影響範囲は、公共財の影響を包括しないのよな、ということを言いたいわけであります。

(この記事のメインの言いたいことはここまで!以下蛇足です)

徳についての徳の高さ・低さ

ここまで言っておきながら、しかしオープンソースにおいては「誰が貢献したか」ということは明確で、そこで優越感や帰属意識、承認欲求というのが満たされる側面もあるようなので…この記事のタイトルの比喩は「功徳のオープンソース」より「功徳の公共財」としたほうがよかったかもな(オイ)

ともかく、そう考えると私たちは、そのような貢献をした時、その貢献自体ではなくて、その貢献に対して反対勘定として発生しているはずの何かを、一般的に「徳」と呼んでいるのかもしれません。これが冒頭の「有徳の士」とかにつながるのかもしれず。

でもやっぱりここで「勘定」という言葉を使ってしまっているように、損得や収支というものを考慮できてしまう時点で、なんというか…徳が低いんじゃないかなと思うわけですよ!徳の徳が低いんじゃないかなと

成仏の話はどうした

輪廻転生を前提とする三劫成仏と、いきなり成仏する即身成仏の話がこれにどう絡んでくるのかというと…えっと…インスピレーションを受けたというだけなので、うまく説明できるかは分かりませんが

たとえば、お殿様が功徳を積むために、仏寺を建立するとしたら、その時点で人夫たちに雇用と対価が発生するわけですよね。それは、輪廻転生を必要としない、きわめて俗世的な貢献という意味での功徳なわけで

仏教に限らず、死後極楽にいけるという発想は、前提として現世を捨てているか、まあ最優先にはしていない態度だと私は思っています。

これを、隗より始めよ。つまりいまここの現実という「辺境」において、功徳やら菩提心やらを発揮せよ、という態度が、即ちこの身をもって成仏せんという態度にリンクしているんじゃないかなと思うわけです。

これが、オープンソースという現世の公共財への貢献という態度につながるのではないかなと…いや〜文章にしてみると発想の飛躍がすごいな…

オープンソース・公共財なるものの延長

で(まだ続く!スミマセン!)、ここで話してきたオープンソース、あるいは公共財という比喩が適用される範囲が、一般的な定義やイメージに限定されないのではないかということも考えています。

例えば私たちが属するコミュニティ、それはたった一人同士の関係性においても、ルビンの壺のごとく、両者を仲介するものとして発生しているものも含めて、これも社会関係資本と呼ばれる、一種の公共財(共通財)と見なせる、と私は思っています。

ルビンの壺ってこういうやつ

これです!こういうイメージです!この壺の中に「徳」は貯まる!それは属人的とは必ずしも言えない蓄積である。

わかっていただけますでしょうか!(???)

おわりに

ということで、こうした勢いだけの怪文書ならいくらでも作れますので、私のボワッとした謎のツイートについて、なにか気になった方がいらっしゃいましたら、今回のFACDさんのようにリプライをいただけると幸甚です。ただただ楽しい…

追記:

か、完璧に言いたいことが理解してもらえている…怪文書なのに…

FACDさん、改めてありがとうございました!

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