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おじさん小論文15 「問いを立てることについて」

 前回はインプットについて考え、自分が取り組む分野を絞り込むことにした。

 今日は自分が取り組んでいること全体に関わる「問いを立てる」ということについて、短めにまとめておきたい。

問いはシュートを生む

子どもの頃から「頭を使いなさい」「自分の頭で考えなさい」などと言われると、「頭を使う」ことのうち「考える」ということは、頭のどこに位置するのかということに悩んでしまっていた。

 その悩んでいることは、考えているのとは違う。何かを思い浮かべるということも、考えることを補佐することはあっても、別物である。

 そんな中、最近「考えることは問うこと」という知見を得た。それを元に、自分一人で特定のテーマについて延々考えたり、他の人たちと問い立てをしあったり、テーマを決めずにただひたすら問いを作るなどしてきた。

 一つ分かったことは、問うことによって「新しい具体的な行動」が生まれやすいということだ。自分はそれを「(サッカーの)シュート」と呼んでいて、自分の生活をより良くするために欠かせないものだと思っている。

 今まではどこまでを自分で考え、どこからを世界で考え(行動でフィードバックを得)ればいいのかが曖昧だった。問うことが厳密に考えることであるかどうかは置いておいても、その境界線になるということは大きな発見だった。

もしかして内発的動機が?

 そういった実利のために行っている問い立てではあるが、昨日から「毎日問いを100問作る」ということをやってみたところ、2日連続で意識が遠のいた。

 それは退屈で眠くなるのとは真逆の、熱中しすぎて我を忘れる状態に近かった。タイピングする指と問いを立てるための脳の部分以外が消えていくような感覚から戻った時に、これがポジティブ心理学でいう「フロー状態」なのだろうか?と思った。

 この感覚を求めて問いを立てようとするなら、それは行為自体を求めている内発的動機づけに該当するのではないか?実利はもちろんあるに越したことはないけれど、仮に実利が全く無いのだとしても、明日もやりたいと思える。ただし、一日中問いを立てていたいとまでは思えない。1時間半が限界のようだ。

 さらに、取り組んでいる最中の精神の変調についても、問いを立てることができる。自分を客観視することについて問う、さらにそれを問うこともできる。メタ認知の階層を自由に行き来しつつ、痺れるように没頭できることがあったではないか。やっと自信をもって内発的動機による行動が自分にもあると言えそうになってきた。

 問い立てをし続けることは自分の強力なエンジンとなりそうだ。ではその実用性は如何ほどか?次回は最優先事項とした「学習学」の実践を具体的なロードマップに落とし込むための文章を作っていきたいと考えているので、そのために「問い」がどれだけの威力を発揮するのかを観察したい。

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