でち日報2024/03/18

振り返ろうにもツイートがあんまり無いのよね。良いことのようにも思える

あんた何してんねんという事例があり、仲間に共有したところ、品性には役割や立場として求められるものと、そのような属性に関わりなく備わっていてほしいものとがある。という話になった。

それはあくまで品性のもつ性質のひとつについてであって、ではそれ自体は何を指すのか?ということを、どう言い表せるだろうか?という問い

対話の中で定義されていない表現は、もっと言いづらいものを言い換えている可能性があるとして、ときに品性は崩せるものなのか?崩せる種類の品性があるのか?それは何か?ということをNaliさんの返信で考えていた

いまよく考えてみたら、この品性の問題も排外的な思考とリンクしている可能性がある。いや…今の自分の興味に寄せてるだけか?まあそれでも構わないか

つまり<あいつら>のことを嗤うことは、安らかな<わたしたち>を確保するために、どんなリソースも必要としない手法であるとして、しかし支払われているものが品性である。みたいな

人間一般として、選択するべきではないことを、自覚的にでも無自覚にでも、正当化して実行すると、品性が下がる?これだとちょっと範囲が広すぎる気もする

それが品性かどうか、品性とはなにか、は自分にとってはあくまで手段でしかない。だからあんまり上手く深堀りすることができないのかしら

うーん、でも、ある時期に発生する不均等、凝り固まりが、たとえ格差と呼ばれるものであっても、人間の生成から死までの現象と相似しているように見えてしまうんだよな。生まれていないもの、死んだものと、生きているものの格差(どちらが上かは不明)

(いい感じに支離滅裂なので、こりゃカフェイン効いてきたな)

施設が費用をかけてバリアフリー対応することが、どこまで求められるか?という時事ネタにもつながってくる。

ちょうど「人新世の「資本論」」読んでて、外部化社会という表現が出てきて便利だなと思ったが、そもそも社会とはまず、外部を持つところから始まるんじゃね?とも思わせる

うーん、暫定的にまとめよう

  • 品性が問われることと、外部化をともなう集団のあり方には関連があると思う

  • 一時的な勃興という動性としての生命と、品性に相反する外部化が、相似に見える。このことから、もちろん正当化はしたくないが、避けにくい構造があるように予測される

ここまでの内容は個人的なメモに退避して、後日改めて考えること

終わりました。健全ではある

「あらゆる知識は廃棄されたジャンクである」もちろん有用でないと言っているのではない

やむなくPOCOYOを見てもらっています


今日は振り返るツイートが全然ないから、余計なことを考えていこうか

SNSのつながりが全部途絶えたとしても、すでにクローズドなコミュニティに参加できているので大丈夫だと思いたいが、それよりも重要なのは、いまSNSに割く時間を最小化することが、どのような変化に対しても備えになるということだ。

割く時間を最小化しようとしつつ、能動的にSNSに投稿したい。という姿勢自体に無理があるのかもな。たとえば知り合いがいるから、という理由だけでTwitterにnoteを共有している。日報の振り返りにも意義を感じている。

その一方で、惰性で…いやもはや、SNSを見てないと落ち着かない(「痒い」という表現が一番近い)精神状態が訓練されてしまったことが大問題なんだよな。時間を決めて制限するとかも無意味だったし

なにか逆転の発想みたいなものの必要を感じる

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