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バカなままで賢くやっていくための前提の前提としての、ことばづかい

ある意味では限定的でつまらない「外付けの知性」に対して、どうやって開かれていればよいか。ということは知性の運用の問題であって、知性そのものに関わる部分ではない。つまり俺みたいなバカにも、なんとかできる余地がある。という気がしている。

かねがね、メタ認知は知的能力に比例しないということを思っていて、ではこの自らを省みる(というだけのちっぽけな)能力は、どのようにして獲得され、養われてきたかということを考える。

メタ認知能力の契機は、イニシエーションとしての社会的死去・破滅的大失敗であり、それを絶妙に回避してきた人がたどり着くネオテニー(ウーパールーパーみたいなやつ)があるのではないか?という仮説を立てたことがあるけれど、もし大枠でその仕組みが正しいとして、では「立ち直るチャンスがある大失敗」を可能にするだけの安全性、幸福、健全性は何によって担保されるのか?育ち?天性?

どのような残念な手札からも、持続可能な失敗によるメタ認知の獲得、さらにそこをコンセントにした外付けの知性・知恵への「開かれ」は可能なのか?ということに対して、潔癖に完全に再現可能だと言おうとする気力はない。

けれど、それが明らかに可能なだけの素養をもっているにも関わらず、生活世界の浅い前提を疑うことすら知らない人に対しては、もっと自分の力で幸せになってもらえないと、そこに世界全体の損失があると思ってしまう。

その人の言語の限界は、思考の(ある側面での)限界なのだとするならば、「ことばづかい」だけで世界観をグイグイ拡張できそうな気はしている。もしそうなら、こ〜んな簡単で楽チンなことはないではないか!どうも自分はこうしたコスト感にまつわる領域に旨味のようなものを感じがちなんだよな…

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