集中がもたらす「メタ快楽」はトレーニングで増幅可能か?脳とのイタチごっこ【おじさん小学生の譫言vol.18】
終わりがないというのも、わかっていることではある。
私の注意力は始終散漫を超えています
何かを渋々やっている時はもちろん、やりたいと思ってやっているような時でさえ、一つのことに長時間取り組むことができない。SNSに、他愛のない調べごと、YouTube…思いつく限りの脱線をしてしまう。
多動とか注意欠陥の傾向があるのは薄々わかっているが、その一方でビデオゲームとかは8時間トイレも行かずにやってしまう。このギャップをなんとかしたい。
頭の中の「芽」が、脱線という「実」になる前に摘む
一時期は座禅に取り組んだことがある。案の定、あふれんばかりの雑念にまみれつつ感じたのは、座禅し続けることができているという認識には、淡い自己実現の快楽があるということだった。
これを日々の作業にも見出すことができないだろうか?頭の中で、関係ない連想や発想を止めることはできないので(そういう薬とかも飲むつもりはないので)、代わりに、そういった脱線の萌芽を、物理的な行動に結びつく前に芽のまま摘むことができれば、少なくとも見た目上は作業を継続することができる。
その構造を上手く利用したものの一つに作業配信がある。関係ない話題や思いつきを会話の中へ逃がしつつ、しかし手は動かしたまま過ごすことができれば、作業の種類にもよるが、「気が付くと終わっていた」に近い状況を作り出すことができる。
「今、俺はとても集中している。それが嬉しい」
しかし他人の力を借りることが、いつでもできるわけではないし、作業通話と相性の悪い作業(動画編集など音声を伴うものや、創造性を要するもの)もある。
そこで、自分が始めた作業そのものに集中できている。まあ、そこまでいかなくても、客観的に「別なことをしている」とまでは言えない状態を、1時間以上維持できていること自体に喜びを感じるということが、訓練によって強化できないだろうか?ということを考えている。
つまり、日常生活の中に座禅の快楽(そんなものが座禅の目的ではないとは承知の上で)を取り入れるということである。
どういった作業において訓練が必要か?
たとえば、こうしたテキスト作りは、意識の流れを途絶えさせることの影響が大きいので、かえって集中状態を維持しやすい。もうすこし単純作業に近いが、手順が固定されてはいない。という絶妙につらい作業において、この方法を取り入れてみたい。
具体的には、絵や楽器の練習、読書、慣れていないツールの操作などである。そうした作業はとにかく脱線が秒単位で発生してしまう。
また、夕方に差し掛かってくると、慣れているはずの作業でも脱線が増えてきてしまう。これはある程度は仕方ないと思うので、つまり集中を要する作業は、1日の早い時間にやるべきだということだろう。
ラクするために脳が全力を出してくる
しかし、こういったアイデアに基づいて、己の行動を律するということ自体が長続きしないということも、あらかじめ分かっている。
自分自身を制御することは、認知において大きなコストであり、多少のストレスがかかることも事実である。これを自分の脳は、いつでも全身全霊(脳が?)で回避しようとしてくる。
自分で決めたルールや構造を逃れるにはどうしたらいいか?一つの方法は自分で決めたことを軽んじること、もう一つは自分で決めたことを忘れることである。
だからそうした脳の拒絶反応も、逆算しておく必要がある。そのためにこうして、考えていることを衆目に触れる形で書き残すし、何らかのリマインドや習慣付けの一環として、対応策を毎日のルーチン項目に落とし込む。
以前、自分が見つけたことの一つに「良い姿勢・良い呼吸・そして(不自然じゃない程度の)笑顔は、作業効率を高める」というものがあり、これは現在「姿勢・呼吸・表情の確認」というルーチン項目になっている。
では今回のこの「メタ快楽」に自覚的であり続け、結果として作業の効率を上げるためには、どんな具体的なルーチン項目を設定したらいいだろうか?
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