でち日報2024/04/18
「なぜ働いていると本が読めないのか」という本が発売と同時にベストセラーになっており、読みたいけどお小遣いを使い切ってしまったので来月買うことにする。
来月はこれも買う
すでに仕事の範囲を限定してもらって、本を読む時間を優先している人間として、直面している問題は「怠惰と労働の両立」に他ならない。
つまり「働いているので本が読めない」の段階はクリアしてて、次の「読書できる程度の働きで、同時に、周りの期待に応え迷惑もかけないようにする」という難問に取り組んでいるということになる(しかも片手間で)
業務の自動化はひとつの答えではあった。いくつかの月例作業においてはスクリプトを走らせれば、数時間〜数日かかる操作を、数分で完了させる状態を実現できた。
問題は、そのスクリプトを実現させるための準備・実装・保守のコストが、どれだけ省力化される分よりも少なかったとしても、必ず俺の毎日の実働を前提にしているということだ。当たり前ですよ
上流と呼ばれるシステム全体の構成については上位者にパスすることができる(というかすべき)だけど、それを実際に動くようにするまでの地味な作業は、「知っていれば誰でもできること」であり、
「知っていれば誰でもできること」に、上位者のリソースを割くわけにはいかない。かといって、知らない人に必要な知識を一から教えることは、一種の長期的な投資であり、日照りになってから種を蒔いているようなものだ。
これをもし「知らないまま誰でもできること」に落とし込むなら、なおさら大規模で長期的な投資になる(だから大資本はマックジョブを整備する)。まさかこれを自分たちで実現しようとすることは、実務として考えづらい。
怠惰の一見無限なる希求は、資本の無限増殖にも似ているが、もちろん身体的な限界を伴う。端的に人間は、一日24時間以上怠けることができない。
では交渉的に、一日2時間の労働ではどうか?暇つぶしという解釈もあるし、社会的なつながりをもとめる心性の延長という解釈もできる。と思って、毎月のうち数日は(あくまで体調もろもろによって仕方なくだけど)それを実践している状況がある。
が、満たされない!もっと怠けられるのでなければいけない。当然、一切の労働をしなくてよいのに少しだけして、そこから汲めども尽きぬ価値を生み続けるのでなくてはいけない。と、俺の魂が叫び続けている。いい歳して家族もあって、よくそんなことを素面で大っぴらに言えるよ。ほんとすみません
まず要求の文面とは表層である。次に要求とは、表層とは別な目的のために文面を満たすものであり、しかしその別な目的も、表層の中で達成されなければいけない。そうでなければ要求が通っても目的は果たされないので。
「文」に多義性があることは、その「多」の数だけ視線があるということでもある。その目配せ同士による交渉が、原典と始原について無・責・任な解釈の降霊術として可能である。
何を言ってるんだという感じだが、まあ、えーと、つまり…ここからはこの要求に対して、解釈によって何らかの交渉の余地を探っていこうと思います。
・労働と感じられない労働をする
このハックはある程度まで有効であるし、重いものを持たない労働というものは既にこれに属している。ただ、認識上の労働は社会通念を簡単に飛び越えて遡行してしまう。
したくなったら労働ではなく、したくなければ労働である。という分類を採用することは、直ちに「したくならないことは労働である→したくないことをしたくないと感じていることは既に『労働の義務に対峙し続けるという労働をしている』ということになる→実働できない」という脳のバグに簡単につながる。やる気が出ないでいる人は、その意味で既に働いている。
これは非常にマズい!というか、これはこれで独立した問題設定にすらなるので、いったん保留にして、別の経路を考えよう。
・怠惰であることから労働価値を抽出する
これも大いに実現性のあるハックではある。「何もしなくてよくなるなら何でもする」みたいな時間差を採用することは、今日のデスクワークの基礎であるとすら言える。
ここで問題になるのは量的なものである。怠惰であることを有効活用して絞り出した価値は、しかしその怠惰を許容可能にするほど潤沢ではない。そりゃそうだ。オレンジから、それを浮かべられるほどの果汁は出ない。
いやあるいは、奇跡的にも怠惰であること以上の価値が見出された状況を想定すると何が起こるか?その状況が普遍的でない限りは、一時的なものであれ、怠惰ではいられない状況が発生したときに回復するために怠惰でなくなることができない。
つまり都合の良い状況が実現するだけでなく、それが永遠に続くというさらなる奇跡を要する事態になり、さすがに擁護できるような現実性ではなくなる。
怠惰であることによって十分な価値が生じるならば、その状況の中で怠惰ではないことが、価値の創出を妨げることにすらなるからだ。そのための最適化がなされないということは、十分に怠惰ではいられないということであり、じゃあそもそも、こんな風に考える必要に迫られようがなかったのである。
・危機を作る
これも有効打として、社会のいたるところで採用されているハックである。締切や信用の危機が迫れば、怠惰さは中断され、本来必要だった以上のリソースを注ぎ込んでその突破に注力せざるをえない。
自己破壊や死、というよりもっと短絡的で直接的な痛みへの恐怖によって稼働すること。まあよく怠惰な人間にはこれが一番手っ取り早いと言われているのもわかる。
だが、生憎ここでものを考えているのは怠惰な人間その本人なのであり、本人としては、こうした機能的な危機に脅かされることを甘受するほどの「怠惰ではなさ」を持ち合わせてはいない。
誰かがうまく騙してくれるならともかくとして、自分が労使両方の主体となる以上、明文的に嘘をつくということは、また別の訓練や病態を必要とするだろう。
・怠惰を求めているのではない
たぶんこのあたりが無難な落とし所なのだと思う。過剰な要求は目的を見誤っている場合が多い。つまり、あるところから先は、働かないことを求めているのではないのではないか?
働かないこと・十分に稼働しないことは、別の何かの手段に過ぎないのではないか?という仮説である。冒頭のうわ言に引きつけて言えば「要求が通っても目的は果たされない」可能性が高いということでもある。
ただ、この手の「お前が『本当に』求めているものは別のものだ」という解釈の押し付けは、極めて暴力的な権力行使の方便になりえることは注意したい。まあ今回は、労使の主体が一致しているので大丈夫だとは思うけど…信じてるぞ!俺!
「怠惰は目的ではなく手段である」まあそうだわな。では、怠惰によって何を求めているのだろうか?
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ここまで考えて、ふと自分が、「もう割と満足している」ことに気づく。自分がどうしてここまで怠惰なのか、それを社会的要請と両立させるには、という世迷言のために、しょうもない御託を延々並べることそれ自体が、交渉するまでもなく、怠惰への欲望を発散させ、ついには「別に予定通り働いてもいいかな」という気にさせる。
いや、今日はじめて気づいたみたいなフリはやめよう。これを狙っていた部分も大いにある。だとしてもこれでハッピーエンドではない。
なぜならこの発散には致命的な問題がある。実際にこの「働いてもいいかな」という状態になるまでに、午前中の貴重な時間が2時間かかる。つまりこれは一日に許容できる労働時間の上限である。
「働いてもよい状態にもっていくだけで時間切れになる」これをどうするか?今日はそれを考える気力と時間が、仕事をするための気力と時間ともども枯渇している。
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明日以降にこれを考えていこうとは思うが、そればかりだと業務に差し障りがあるので、いったん対処療法的に「仕事と思わないで」「仕事したくない気持ちを燃料にして」「迫る締切に向けて」仕事をすることを選択して、続きは来週あたりに再開することとする。
なんと面倒なんだ!いやしかしこういうことを書きなぐることは、相対的にかなり苦ではない。それが証拠に、ほとんど意味や価値がないこともわかっているにもかかわらず、何年も同じようなことを繰り返しているにもかかわらず、悪い気がしない。晴れ晴れとすらしている。
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