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おじさん小学生の読書メモ2回目

昨日読めなかったフッサール入門書を再読。「ウィトゲンシュタインはこう考えた」を読んだ後だと、初めて目を通した時よりも分かる(感じる)語彙が増えてきた気がする。こういう読み方をしたらいいんだな。

「宗教生活の基本形態」の後に「野生の思考」を読むと、デュルケームが素朴に「未開社会」が未開のまま保存されている前提で話を展開させている点が露わになっていて、ちょっと読んでるこちらも恥ずかしい。

目の前の本を鵜呑みにしないで読むというのは負荷が高い気もしつつ、あるところからはそういった姿勢で読まないと突破できない壁もあるのだろう。

さらに気は多くなっていく

仲間内で東京のヒップホップシーンについての講義を受け、好きな自主連載漫画の一部が終わって、音楽も漫画もやりたくなってきた(アホ)

したがって自分が抱いている欲求の大部分が「やりたいことがすぐできるようになりたい」ということであるが、それは無理そうだということが36歳になるまでに分かった。

おじさん小学生は物分かりがいいので、最近はこれを一部妥協して「やりたいことを、毎日ちょっとずつやる」生活を実践している。クオリティを生涯不問とし(商業作品やマスターピースを作ろうとしない)、タスクを継続可能な小サイズに落とし込む。

それらは広義の「独学」と言えるだろうか?本当は何か一つを極めてから次にいけばいいのに、一つのことを長く続けていると苦しくなる。マルチピテンシャライトで言うと「フェニックス・アプローチ」ができない「スラッシュ・アプローチ型」ということになる。

その時、最優先項目とは「あらゆる独学において重要な技術」を独学することだろう。それはインプット・実践・アウトプット(フィードバック)の型を獲得することであり、たとえば学習学の要はそこにある…と思う。

あと健康。

読書というインプットの一形態

したがって、うっすら予想はしていたけれど、このnoteを人文的な分野に限らずインプット全体についての記録としていくことになりそうだ。

音楽やら漫画やらも、読書によるインプットを欠かしたくない(決して必須ではなくて、個人的な嗜好として)

であるならば、包括的な読書メモを残しておくことを、なぜ今までやってこなかったのだろうか?

それは理由がハッキリしていて「読まない時は全然読まない」からである。

もう一つは「読書メモを日記と区別してこなかった」ということだろう。日記は裏で書き続けているが、その中に読んだ本のことを書くことがあって、それで満足していた部分がある。

ここからはインプットを記録するという習慣を、日記とは切り離す。日記ではないので本を読まない時期には記録もしない。ということでよろしかろう。

音楽についての読書は、個人的な交流から譲ってもらった資料PDFを読むことになるので、この内容を公開するのはちょっと差し控えつつ、漫画については「労働者のための漫画の書き方教室」(労働者じゃないけど)やら「ソッカの美術解剖学ノート」やらをテキストに読み進めていくことにしよう。

そういえばDTPも勉強するんだった…って絶対、全部いっぺんにやるの非効率だろ!バカなのか俺は?

バカだった

目標や目的が他にあるなら、非効率なことは大問題だろう。しかし、なんら成果を求めずに、少なくとも第一義とせず、その行為自体を楽しむことが目的ならば、暇を感じる隙もないほどに全部を詰め込んでしまって何か困ることがあるだろうか?

健康を害するのであれば、それは種類が多すぎるせいではなく、一つ一つのサイズが大きすぎることが原因だ。松花堂弁当のように、一つのジャンルについての活動を全て30秒で終わるサイズにすれば理論上健康を損なうことはない。

そしてその全てが義務ではない。なので実際には毎日できなくても良い。その結果、人生で何事も成し遂げられなくても一向に構わない(というか何事かを成し遂げる人は既に成し遂げてるものだろう)。

その上で、やりたいと思ったことは、やれる分だけはやろう。せっかくやったなら、やった分だけ記録を残そう。というだけの話である。これからさらに無尽蔵に興味の矛先が散らばっても構わない。

断続的に取り組む分野もあろう。そこから成果を出すためには、あまりにも一つ一つに費やす時間が足りない。しかし人生を塗りつぶすには十分であるし、能力の有無を問うレベルにもなりえない。

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