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空海研 課題図書「空海の思想」第1章の感想

参加している読書サークル「加藤さんの部屋」で始まった読書会「空海研」

空海についての本をみんなで読むということで、第1回の課題図書はこちら

主催の方からの依頼もあり、第1章についての感想をnoteにまとめていきます。

パワフルな著者

 著者の方は長年フランス文学や哲学をされている大学教授の方で、50歳から空海の私的な研究を開始されたという。wikiを見たところ、最近では72歳になるまで7年かけてベルクソンの著作個人完訳を刊行されたということで…パワフルな人だな!

 このパワフルさは、空海や密教が説く菩提への道に、避けがたくマッチョな姿勢を求めてくることにも呼応している気がした。

 虚弱タイプの自分には信じがたいことだが、世の中の「力が有り余っている人」たちは、その力をいかんなく発揮できる場をもたなければ力が膿んでくるらしい。

 パワーを惜しみなく注ぎ込む対象を見つけることができた著者は、とても幸福な方だなと思った。

大胆なアプローチ

 そのパワーもあってか、この本では2つのかなり大胆なアプローチがとられているように思われた。ひとつは「空海の作品のうち、本人が書いたと(著者が)思えない部分は全部捨てる」もう一つは「弘法大師の話はパス」というものである。

 空海の著作(漢文)に深く触れた著者ならではの観点で、これは空海ではなく、後の世の人が勝手に書き足した部分(歴史のある書物に当然そういった加筆があるということも、普段の生活では考える機会がなかった)であると断定して、ズバッと捨てる。これは別の専門家からすると「ちょ待てよ」と言いたくなる部分があるのかもしれない。

 また、空海の一般的なイメージである「弘法大師」については、これはもうフィクションとして、ここでは論じない。という態度を明確にしていた。

「空海伝承」という括りでの研究を行うのであれば、フィクション部分も無視できるものではないが、今回はそれとは立場を異にするということ。

 ちょうどいい例えが出てこないが、つまり…プリンセス天功について論じる時に、アニメ版プリンセス・テンコー(Princess Tenko and the Guardians of Magic)の話はしないという態度で…

いや逆にわかりにくいな

ともあれ、これらは門外漢の自分にも、かなり思い切った姿勢だということが伝わってくる。たまたま今回の課題図書を読む前に、図書館で2冊ほど別の人の空海本を読んでいたので、それぞれの判断に対して「そうきたか〜」という気持ちで構えられるが、これが空海関連本のファーストコンタクトという人には、多少偏った入り口なのかもしれない。

第1章は空海の書いた「願文」2つについて解説

 願文とは、法事の時に、故人の供養を祈祷する文章である。当時空海と交流があった人たちの、亡くなったお父さんお母さんの供養のために書かれたその願文の構成と言葉選びの素晴らしさ、そして厳格であるがゆえにそのルールから脱した部分については、空海本人の書ではないと断じる著者の、サンスクリット語まで遡る幻想的な解釈がつづられる。

 これは「ノロケ」だな!という気持ちで読むことができた。誰かが「これがいかにすごいか、すばらしいか」ということを、我も忘れんばかりに語り尽くす様子は、たとえ語りでも文字でも美しい(それが証拠に、この本はフワ〜っと脱線していく場面が多く、なかなかまとめ記事にしづらい)全部はよくは分からないが、とにかくすごいんだな!とにかくアンタは空海が大好きなんだな!ということが伝わる文章である。

 また、空海は日本に伝わるまでに分化した仏教というものを、再び統一しようとしていたという解釈もされていた。若き日の空海が「私の師匠はブッダです」とド直球に宣言している文章(聾瞽指帰)を根拠にしていて、言い過ぎでは?という気持ちも湧いたものの、以下の動画で解説されている内容を鑑みると、やはり空海がパワフルに、そうした「野心」を抱いていたとしてもおかしくはないとも思える。

熱量で最後まで読めそう

 とにかく話があちらこちらに飛ぶので、まとめにくい(2回目)。だけど、こうして自分では抑えきれないものに突き動かされているような人の語る内容、というよりは、その熱量によって、受け手は動かされるということもあると思う。勢いに押されて既に第2章も読んでいるが、こちらは当時の仏教に対する批判としての即身成仏の話をしていて面白い。このまま最後まで読めそうだ。

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