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易きに流れると高くつく(娯楽と連帯の供給について)

仕方ない場面はある。誰かに嫌な思いを抱いているのが自分だけではないことを、どこかで確かめないことには、何も始まらないこともある。

しかし、だからといって特定の誰かを貶めて、団結を確かめ合って場を和ませるような流れに対しては、はっきりと角を立てておきたい。

あまりにインスタンスすぎる。人間性を手段として浪費しすぎている。陰で悪口を言う人は、自分たちが無意識に支払っているものについて、もっと真剣に省みてほしい。

百歩譲って、いったん聞かなかったことにするか苦笑いするから、どうかそういうクセをつけないでほしい。

なぜ嫌いで連帯するか?

善悪を抜きにして、どうしてそのような態度や発言が起こってしまうか? ひとつに「悪口以外に(悪口以上に)楽しい話題が無い」という暗黙の判断がありはしないか。

そもそも楽しく過ごせれば話題など何でも良くて、その中で供給コストが低いものとして、居ない人を悪く言って、嫌いという共感で連帯するという行為を肯定する態度がありえる。

悪口は毛づくろいのための、人類最大の発明の一つだとは思う。だけどそういう人類をやるのは、他所でやってほしい。そういう人類へと巻き込まないでほしい。

代わりに興味のあること、新しい発見、傾聴、いっそ無意味な言葉遊びに興じていたい。そんな奇特な人類もいるということで、ひとつお願いしたい。

悪口を言って何が悪いの?

と思う人がいても構わない。noteのように誰にでも見えるかたちで、わざわざ「なぜ悪口を言うたびに体調・運気・人間関係・仕事その他、に悪影響が出るのか」について、他人に伝わるように言語化する気にはなれない。

一方で、「たとえばあの人は、人の悪口ばかり言っているのにどうして都合が悪くならないの?」という質問には「そういう人間は、我々の考えも及ばない覚悟を決めている可能性が高い」と答えることはできる(特殊なケースを、自分たちを正当化するために持ち出しても仕方ないのではとは思いつつ)

せめて笑うな

いない人の悪い部分のことを話題にする時は、せめてあざ笑いのタネとしてではなく、その人本人に対する懸念として言いたい。信頼関係と文脈によっては直接意見することが、必ずしも適切ではないことも多々あるので、その前段階として一人で抱え込まないようにする場面は避けられない。

人と人とのことなので、どうしてもこういったグレーゾーンはある。だけどそういう場合でも、グレーゾーンのスリルや背徳感を愉しむのではなく、やむなく踏み込むに留めていたい。

付記

あとは、私個人が一人の人間として、陰口悪口を見境なく言う人や、その場にいる相手に対しても雑イジリするような人間に対しては、じっさい絶妙に態度を変えているということを、ここに付記しておくフェアネスくらいはあってもいいかもしれないですね。

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