でち日報2024/04/03
天気が良いことに救われている。今日は一枚脱いでも問題ない暖かさで、朝のうちに、でちおを散歩させてきた。
最近はそこまで意志の力を使わなくても、Twitterを見ずに過ごすことができている。代わりにBlueskyを眺める。
『人新世の「資本論」』に対して、自分が抱いた不満に近いものが書かれていた。つまり全体の正義と公正のために、統率者に気高さを求めるということが、統率者本人にとって、どのような即時的インセンティブになりえるだろうか?
それを考えたとき、まず日本人で、実家のある地方都市住まいの妻子持ち中年男性である自分が、「持たざるもの」では決してない、という事実を風袋引きするわけにはいかない。権力とかはないけど、階級があるなら下ではない。
では翻って、どのような気高さを自らに要請すればいいのか?納税などの社会的な義務は果たすとして、さらに上乗せするものがあるとしたら、どのような義務か?
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たとえば事業の規模を拡大することは、その維持に支障をきたすイレギュラーに対する、バッファとして以上には目指されてはいけない。
余剰資産・余剰資源を無限の再生産に供与するのではなく、ゲームの利益を世界の豊かさに差し戻しする。このことが、ゲームを駆動させるために必要な制度的な欠乏の効果を限定的にする。ゲーム最適化をあるところで中断する。
持たざるものに権限を移譲するビッグマンシステム、徳政令、役満で上がった時は、同卓以外の人にまで一杯奢ること、あるいは互酬性ゲームの外側に働きかける贈与が、ゲームをいったん社会的な前提の座から引き下ろす。私達の、ゲームへの陶酔を瞬断させる。
それはゲームの延長ではなく、拡張であるとも言える。考えなければいけないことは、今有利になっている人を退場させたり最下位に陥れることなく、納得の上で拡張の承認を得ることなのだと思う。
たとえば社会的な地位や金銭の寡多が、ゲームの中で帯びる力を(さらに)限定的にするという中間チェックポイントが考えられる。そのために必要な、社会における生きやすさ、イージーさが、それでいて既存の勝者たちの喜びを脅かすことのないような構造があると良い(まだ具体的には想像できないけど)
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もう一つ、改めて言っておきたいことは、このような公正さに働きかける時に、連帯と団結のための言葉を掲げないことが可能かどうか?ということである。
ここに俺が何かを書きつけたとて、そこに読者への扇動や強制力、心に訴えかけるものがある必要はない。一人で勝手に言って、一人で勝手にやる以上のことは望むべくもない。
そうした態度を表明することが必要だと感じるし、自分にできることの範囲に含まれていると思う。個人のちっぽけな力を信じていない連帯というものが、ある種の社会運動から透けて見える。
時に他人と力を合わせることは良いだろう。しかし会社・組織なるものを疑っている自分が、崇高な理念のために結成された集団ならば例外的にこれを信ずる。などとすることはできない。
誰かの敵として立ちはだかることもなく、同時に正義の外部に浮遊することを、自覚的に選ぶ。その方が、たった一人で何かをするときの効果を最大化できるという実感もある。
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一日サボったのでカフェインの効きが良い。デカフェすると決めたことをすっかり忘れていた。
この感じで仕事もぼちぼち進捗を出して、上記で偉そうに言っているような「富裕層の気高さ」を発揮できる場面を増やしていかねばならない。そう思えること自体が、特別に恵まれているということも重々承知の上である。
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