でち日報2024/04/09

ひどい雨で体調悪しと思いきや、普段具合が悪い人間はみんなが不調の時に比較的動けたりもする。

新しい業務が始まり、慣れない作業をしつつ、仕事に限らず自分が何かをしなければいけないという事実にキレ散らかしている。カフェインによって人格を凶暴化させないと労働ができないのである。事務所が自宅から独立していて本当によかった。

午前中は飛び込みの対応をして、昼に帰ってでちおを寝かしつけたら、必要な端子をもってもう一度事務所へ移動。待ち時間のある作業なので、その隙に日報を書いている。


日常生活はもちろんのこと、仕事上も、気を許している相手への対応が他の対応と違うということを自覚した。

気が合う相手にはできる限り便宜を図りたい。ええ格好したい。という気持ちが強いのは、見捨てられ不安なのか、それとも、そこくらいでしか自分は付加価値を付けられないという諦念か。

あんまり褒められた態度ではないので、当然仲間たちに諌められつつ、大きな影響が出ない範囲ではワガママに労働していくことにした。


これだけでも、自分が公平さを求めている人間ではないことがわかる。世の中の公平性、フェアネスを優先するならば、関係性によって態度や対応を変えることは悪だ。

しかし、強者弱者とか、国籍とか性別とか、そういった別の属性による不公正と打ち消すことならできる。誰かの公正が別の誰かの不公正ならなおさらである。


たとえば、こうしたアプローチで、つまり別の格差・不公正によって、経済的な格差を緩衝することは、どの程度自覚的にできるだろうか?ということを考えている。

まあ、特別意識するまでもなく、仲の良い人にはアスパラを贈ったりしているのでそれで十分なのかもしれないが、限られた関係性の中で、自分が生きていてほしいと思う人たち、さらには漠然と、より良く生きていってほしいいと願う人たち、に対して、偽善とも贔屓ともつかぬ富の分配を、互酬性抜きに(あるいは互酬性は単に名目として利用して)実践していくことの意味があるとしたら、それは何だろうか?


全国的に天気が荒れているときは、うっすらと連動してTwitterも荒れているように見える。

仕事以外では見ないようにして久しいが、いかにTwitterが、暴力の常態化したコミュニケーション空間であるかがハッキリと感じられるようになってきた。

柔らかい言い方を選ぶなら、リング・闘技場なのだろう。そこでは観戦することも、暴力への加担に他ならない。

そこから引き上げても困らないようにすること、たとえば手軽に暴力を目撃することで、常に神経を痙攣させずにはいられないほど、自分の置かれた状況が不快で耐え難いものである事実があるなら、それ自体を更新すること。

冒頭にある通り、自分も決して良いコンディションではないが、有り難いことに、耐え難いというほどは悪い状況ではなくなってきた。ならば、習慣付いてしまっていた「苦痛から意識を逸らすためのSNS活用」を脱する努力は、一考に値する。この判断は、いまのところ正しかった気がする。もちろん、たびたびスリップすることもあるだろう。

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