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空虚で客観的整合性もない思索でさえ悪寒と疼痛に効く

言語で規定される種類の社会において知能とは、ひとつは記号による抽象的概念操作の技能であり、あるところから、概念自体を自己増殖させる一人シンギュラリティ状態を経由する。

公道を走るには車検が必要であるように、論理の展開には、人と共有するために最低限クリアしなければいけない条件があるが、それを無視して私有地の中でテオ・ヤンセンの偽物みたいな、崩れながら膝をついたまま前転するモビールを走らせる。

説得力も正当性もなく、そもそも読解もできないような、ほとんどうわごとに近い思索にも、主体性がある。いまこの社会にひどく損なわれたものの一つである主体性は「こっそり奪い返し屋さん」たちの手によって整備された暗黙のルートで回復されるのが一般的である。

これを、余計で不要不急で、不毛で無価値な蕩尽によって独立しつつ取得し直すこと。そうした操作によって暴力を回避する。私たちの関係が無害であろうとすることを確認するために、あるいは、心地良さを了解し合うためだけに不快を分け合うような揶揄、苦言、そして懸念に見せかけた、暴力を回避する。

「しかたない加担」を拒絶するために、まがい物でもいいから主体性が必要だということ。眠りにおいては潔く敗退し、一方で、重力への抵抗としての歩行があるように、酩酊したままでいいから、

しかたなくなどありません。わたしとお前を宿代にして現れたちっぽけな邪悪を、今ここで「しかたない」にすることはできません。と踏み込むことが、政治性の素朴な前提なのではないか?

幻覚に話しかける。目に見えないものを承認する。再現性と客観性がその下位概念である以上、かなり早い段階で私たちは「話が通じなく」なる。

そこから無目的な共存が発生する。その不快とままならなさを敷衍して、終わりようのない解きほぐしをしつづけながら、もう一つの手ではさらに野放図にぐっちゃぐちゃにしていく。その悪を我が名において実行するのであり、連名にすることはできない。

フォルムとして祈りになっているだけで、そこには願いも惰性もない。

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