灰色の煙から「わたしがほしいもの」を取り出すこと【おじさん小学生の譫言vol.42】
よく分からないまま書きはじめても、何事かにはなるもんだな〜
原因と対応
人間が自分の欲求を全て把握しきるということが、ありえるだろうか?言いようのないさざめき、苛立ちというほどではない落ち着かなさ。
それが結局、天空の調べ(気圧)によってもたらされていると知った上で、ではどう過ごすのか?具体的な行為とは、地にひれ伏す人どものあり様に他ならない。
大きなものによって揺らいでいるものは、いつでも小さな自分であり、それがどのように震えるのか、震えが伝播してどのような音色になるかは、さらに聴く者に委ねられるわけだ。
鳴り止まないならどうするか
その音色が透き通らない。望ましい響きではない(ことが予想される)時、それでも鳴らすにはどうするか?
誰にも聞こえないところで鳴らすこともあるが、それだけではどうも鳴り止まないとなれば、どう鳴らせばいいのだろう?
それを知ることができれば、心ゆくまで打ち鳴らし、鎮め、かつ聴く者に…
ちょっと待て!「聴く者に」?
メタ認知による抑制はあって良い
周りが見えていない人が、いかに不快と困難を撒き散らしているか。それを何度も目の当たりにした自分が、同じ悪徳を生み出す存在になることを恐怖することに、一応の正当性を認める。
自らの快楽を最優先するのではなく、どのように感じられるか?どのように解釈される余地があるか?という視点を踏まえて、表現手段、語彙を矯正している。他者のまなざしを想定している。
ここで言う「自らの快楽」というものには、当然自分では制御できないもの、射倖心や客観的価値の創出も含む。
しかしそういったものを希求する下心こそが、自分では制御できないものを遠ざけるものであると知っていれば、心のままに振る舞うことが、心のままに振る舞うこと自体として採用できない。
だからといって、そうした葛藤を踏まえた上で意図的に自らを解放するとどうなるかを、私たちは既に知っている。それはツイッターになる。狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり。内面はどうあれ、振る舞いこそが「見える」
欲望を制度化すること
「今は何もしたくないが、いざ何かをしたくなった時に、すぐに過不足なくできるようになりたい」という感覚はメタ欲望であり、いまここわたしの欲望ではない。
だから、いまここわたしの欲望をもって代替する。好き勝手にやっていたら、ある時突然それが役に立って価値を創出した。そういうことがある。
つまり必要なことは、いまここわたしの欲望を研ぐこと、常に研ぐことのできる制度であり、たとえば「何を言いたいかわからないが、何かを言いたい」ということは、研ぐことを待っている鈍い刃がそこにあるということだ。
これを殺さないでしかも鳴り止まないのであれば堂々と晒す。不快と苦痛をもたらさないよう祈るように手心を加えて、手放す。
習慣とは「見える」という意味で行為だから、狂人の真似とて習慣しても即ち狂人ではあるが、狂人であり続けること、狂人である習慣を持つためには階層をひとつ上に持ち上げなければいけない。つまり…メタ習慣が必要になる。
しかも、習慣も行為も理性も、下部組織によって規定され続ける。私たちは下部(身体と関係性の健全と維持)と上部(認知の健全と鋭敏)に引きちぎられそうになることで、その中間部に真空を生み出して、真空を嫌う環境としての自然を煽る。すると地滑りが起こる。
欲しいものをトリミングする
子どもの頃、鉛筆でずっと1箇所をグルグルと塗りつぶしていたことがある。
灰色の煙のようになったその場所を見つめていると、濃淡や線のダマりによって何かが像を結んでくる。その像の輪郭をあらためて意思をもってなぞるという遊びである。
つまりここで言おうとしていたことの一つの可能性は「どうしていつでも望ましい習慣を身につけることができないのか?」「どうして望ましいものを直ちに何度でも手に入れることができないのか?」という話題についてだったのではないか?文字でできた灰色の煙から、うっすら見える輪郭をなぞると、そうなる。
ではここでいう「メタ習慣」とは何か?それは習慣と何が違うのか?働きかけることがそもそも可能なのか?
これが今の自分がほしいものだ。とする。これを文字列の中から拾い出して今日は終わる。
あれだ。「この中で最初に目に止まったものが、あなたのほしいものです」という文字列の画像のやつだったんだ。ならば何度もそれをやろう
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