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老残日誌(七) 韓愈「鰐への手紙

韓愈「鰐への手紙」

二十四史『新唐書』巻百七十六の列伝第百一は、盛唐の詩人として知られる韓愈(768-824) の項である。その5262~63頁に、いわゆる「鰐魚文」がある。東洋学の大家だったシカゴ 大学神学部教授のミルチヤ・エリアーデ(1907-1986)は、その1961年12月17日の日記で これに言及している。

ミシガン湖の湖面を渡ってくる骨を刺すような冷たい北風が、シカゴの街を吹き抜けはじめ た。そんな冬の日の午後だった。エリアーデはまもなく秋学期を終えようとする心地よい開 放感のなかで、学生たちの期末レポートをぱらぱらとめくっていた。そのとき、9 世紀 の中国大陸における南の沿海の地、潮州で進められた興味深い宗教行事を中国学専攻の学生、 ウィリアム・A・ライルがまとめたレポートに目がとまった。それは盛唐の皇帝=憲宗の不 興を買って潮州に左遷された韓愈が現地の政治(まつりごと)を命じられた地方長官(刺史) として、住民に被害をもたらす鰐の群に宛てて書いた「鰐魚文」という奇妙なテキストの翻 訳と注釈だった。その学生のレポートには「鰐への手紙」というタイトルが付けられ、ちょ うどそのころ、ユーラシア大陸をフィールドとした宗教現象の比較分析を進めていたエリア ーデの胸を躍らせる内容にあふれていた。(妹尾達彦「横浜市立大学大学院夏季集中講義 録」)

韓愈は、長安からみれば遥か化外の潮州に地方長官として追放された。これは紛れもない左 遷で、それは熱心な儒者だった韓愈が仏教に心酔する皇帝に、くれぐれも仏陀の歯を受け取 らないよう直言したことへの報復人事であった。この不本意な赴任について、韓愈は、元和 14(815)年、姪孫の韓湘に次のような書簡を書き送り、心情を吐露している。

左遷至藍関示姪孫湘。一封朝奏九重天、夕貶潮州路八千、路八千欲為聖明除弊事、肯將衰朽 惜残年。雲横秦嶺家何在、雲擁藍関馬不前。知汝遠来應有意、好収吾骨瘴江邊。

左遷されて藍関に至り、姪孫の韓湘に示す。朝、九重の天に一封を奏し、夕に八千里の僻遠 の地潮州へ貶せらる。聖明の為に弊事を除かんと欲し、肯て衰朽を將て、残年を惜しまんや。 雲は秦嶺に横たわり、家いずくにか在る、雪は藍関を擁して馬は前まず。汝が遠く来るは 應に意有るべしを知る。好し 瘴江の辺りに吾が骨を収めよ。

韓愈は長安から「八千里」の僻遠にある福建と広東の省境に近い潮州に着任すると、さっそ く、南シナ海に注ぐ韓江の河口では鰐が異常に繁殖し、河沿いの民家の家畜を襲い、住民を 苦しめている、という部下の報告を受けた。そこで秦済ら一群の地方役人を引き連れて鰐の 棲息する河辺に向かい、そこで羊1匹と豚1匹を生贄として水面に投げ、鰐の群れに向かっ て、人々を苦しめるのはもう止めよ、と諭したのである。


正史としての『新唐書』は「鰐への手紙」を以下のように記録している。

盡三日、其率醜類南徒于海、以避天子之命吏。三日不能、至五日。五日不能、至七日。七日 不能、是終不肯徒也、是不有刺史、聴従其言也。不然、則是鱷魚冥頑不霊、刺史雖有言、不 聞不知也。夫傲天子之命吏、不聴其言、不徒以避之、與冥頑不霊而為民物害者、皆可殺。刺 史則選材技民、操彊弓毒矢、以與鱷魚従事、必盡殺乃止、其無悔!〔『新唐書』巻176(中 華書局、5263頁)〕

三日以内に醜い仲間とともに、天子の命を受けて赴任した吏(韓愈自身を指す)の目の届か ない南海に去れ。三日が無理なら五日にしよう。五日が無理なら七日さえ認めるだろう。七 日も無理で南海に去らないなら、あえて刺吏(同上韓愈)に逆らい、その言を聴かなかった ものとみなす。そうでなかったら、おまえたち鰐どもが頑迷無知で、刺吏の言葉を理解でき なかったということである。天子の命を受けた刺吏を軽んじてその言に従わないもの、頑迷 無知で民を害するものはみな誅殺されるべきだ。刺吏は有能な役人と民を遣り、強い弓と毒 矢を放ち、おまえたち鰐どもを屠り尽くすだろう。後悔するな!

日記によれば、エリアーデは韓愈の「鰐魚文」を、いまではこの国に真の皇帝、すなわち天子が在わし、鰐たちに無秩序な繁殖を許した無政府状態と混乱の時代は終わった。すでに新 たな宇宙(コスモス)がそれに先行した混沌(カオス)の時代にとってかわったことを鰐へ の手紙に仮託し、世間に言い聴かせている、と理解したようだ。

米国における、東洋学の水準の高さを知る。博学なエリアーデもさることながら、その若い 学生が書いたセンスの良い期末レポートを受け取ることのできたエリアーデに羨ましささえ 感じる。

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