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浦賀日誌(四) 写真の記録性

写真の記録性


名作は、さまざまな読まれ方をする。開高健著・秋元啓一写真『ベトナム戦記』(朝日新聞社、昭和四十年)も、その一冊だろう。ベンキャット村(サイゴンの北西五十二キロ)のジャングルでベトコンに包囲され、猛攻撃を受けた南ベトナム政府軍兵士の総員は二百名、そのうちのわずか十七人しか生還できなかった。週刊朝日の従軍特派員だった開高健と、開高が秋元キャパと親しみをこめて呼んだ秋元啓一(朝日新聞出版写真部)の二人もこの十七人のなかに含まれ、奇跡的に救出された。

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一九六五年二月十五日、サイゴン河畔にあるホテル・マジェスティック一〇三号室の写真(二七〇~二七一頁)である。ベンキャット村からサイゴン(現ホーチミン市)に戻った二人がホテルの自室に倒れこんだ直後の状況を秋元が撮影したものだろう。奥のベッドでは、生死の境をこえて疲労困憊した開高がすでに正体なく眠り込んでいる。まだ毛布が乱れていない秋元のベッドには三台のニコンが無造作に置かれている。秋元は洗面所を暗室がわりに、戦場で撮ったモノクロ・フイルムの現像でもしていたのだろう。『ベトナム戦記』の記述によれば、秋元はこの取材に四台のカメラを携行した。もう一台のニコンは撮影者の掌中にあり、ベッドに倒れこんだ開高の姿をとらえている。

ベッドのカメラはその形状から判断すると一眼レフ機が一台、レンジファインダー機が二台である。一眼レフはペンタ部が鋭角的にとがっているので、ニコンFであることがわかる。戦場では、長玉(望遠)が苦手なレンジファインダー機には広角か標準系のレンズを装着し、一眼レフには望遠系をつけて使った従軍カメラマンが多かった、と書いているのは青木冨貴子『ライカでグッドバイ』の主人公、沢田教一である。

秋元のレンジファインダー機はニコンSシリーズで、広角レンズが装着されているようだ。カメラの背面しか見えないのが残念である。写真は不鮮明だが、軍艦部がM型ライカのように中央部でストンと下に落ちており、接眼部も正方形に近い方形なのでS3かS4ではないか。S3の総生産台数は14310台、S4は5898台だった。新聞社の備品ならば、生産台数が多く、すでに初期不良が改善された機種を採用するはずだ。写真のカメラはS3であろう。ニコンFに装着されているのは105mmだろうか。その横にころがっているのは135mmのように見える。秋元はこの写真に、疲労して泥のように眠り込んでいる開高を写しこんだのであり、ベッドの上のニコンを撮るつもりはなかった。だが、広角レンズで部屋いっぱいに撮影された写真には、三台のニコンが鮮やかに写し込まれている。

ベトナム戦記(調整)

わたしは二〇〇〇年四月、ベトナム戦争が終結して二十五周年のとき、マジェスティックの一〇三号室に宿泊したことがある。開高も秋元もすでに彼岸の人となってしまっていた。しかし、スコールにおそわれた窓外の景色に展開するサイゴン河は、相変らず豊かな水量を蛇行させながら滔々と流れていた。ドンコイ通りの角地ではホテル・マジェスティックがコロニアルな雰囲気とともに、終戦で崩れさったはずの資本主義の残り香を濃厚に発散していて心地よかったが、そこには、もう、ベトナム戦争の硝煙を嗅ぐことはできなかった。

名作のなかのなにげない一枚の写真をてがかりにして、前後の描写や時代背景、カメラの歴史などをたよりにあれこれ勝手な想像をめぐらすことには、複雑なジグソーパズルを解くような知的で静かな楽しみがある。写真の記録性が時代を越えて後世に贈ったプレゼントというほかない。

New Mamiya6+G75mm f3.5

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