見出し画像

老残日誌(二十一)

北京の古往今来

新型コロナウイルスの世界感染地図などをみながら、すくなくとも経済と家庭設計では完全に失敗してしまったみずからの人生、おおげさに表現すればわたしの古往今来を噛みしめる。もう、四十年以上もむかしのことだ。まだ北京が貧しくも静かな古都であったころ、そこの住人だった。まるで戦後の廃墟ではないかと勘違いしてしまうほどに疲弊した景色、垢と埃にまみれた建築群や人流が貧民窟のように連鎖していた。どちらかといえば、きらびやかな世界を好む世代だったはずなのに、よりにもよってこんなところに棲みついてしまい、はてはこの街の朽ち果てそうな土色の壁に惹かれてゆく。長安街にはときどき農村から野菜を運んでやってきた驢馬車が迷い込み、交通民警が馬の顔にバッテンを描いた道路標識を指差して怒った。農民のあわれな車夫はなんのことやら理解できず、民警の形相に驚き、驢馬の尻に鞭を当て、六部口か南池子あたりの路地に逃げ込んでゆくのである。どうせ自動車なんてまばらにしか通行していないのだから、農作物を積んだ驢馬車が通ったってよいではないか、と思った。しかし、どうもそうではないらしい。長安街は、今も昔も中共党=国家のメインストリートである。外国の賓客が来れば、西単から東単あたりまでその来賓が属する国の旗を無数に掲げ、党国の首脳が謁見する人民大会堂まで慇懃に誘導する。それは、遠路をはるばるやってきた賓客を歓迎しているのではなく、中共党=国家のメンツを表しているにすぎない。そんな政治的な雰囲気に長安街を、おんぼろな農民の驢馬車が農作物を積んで進むことなど許されるはずがなかった。

note用 北海と白塔(北京、1999年)

その長安街を西から東に向かって一直線に走る一路車(一号路線バス)の車掌に、淡い恋をした。紺色の制服を着た、うりざね顔の美人であった。その車掌を追いかけ、乗る必要のないバスに乗り、南礼士路から通県の方まで行ったこともある。職場でいちばん仲のよかった陳真さんにそのことを話すと、さんざんにからかわれたが止められることはなく、やけに激励してくれた。聡明な陳真さんは、この恋が決して成就しないだろうことを最初からわかっていたのかもしれない。

景山から黄色い海原のようにうねる瑠璃瓦の屋根の連なりを見て、北海から前海、后海に沿って歩き、西海へむかう。途中、鼓楼大街の人波に呑まれそうになり、急いで裏通りの胡同へ避難する。北京にゆくと、まず路傍で新聞紙見開き大くらいの交通遊覧図を買うのが習慣になってしまった。前世紀の一九七〇年代から現在までのものを見比べてみると、地図はその精細さをどんどん失いつつある。年々、街が肥大して郊外に拡がり、一枚の大版紙に書き入れることのできる情報量には限りが出てきたからだ。初めて北京に暮らした一九七〇年代、その地図にはせいぜい三環路までしか描かれていなかった。北西は海淀、南は豊台、そして東は朝陽あたりまでだ。

画像2

ためしに二〇一九年に発売された最新版を取り出してみると、北が昌平、北東は順義、西に目をやれば門頭溝、南が大興、東は通州にまで及んでいる。かつて昌平とか大興、順義なんて、八達嶺や人民公社に行くときくらいしか耳にしなかった地名で、門頭溝や通州にいたっては「化外の地」みたいな印象しか残っていない。昨年、二十代のころから付き合いのあった腹心の友、黄昇民(中国広告業界の風雲児)の豪華な二階建てのセカンド・ハウスにいく晩か泊めてもらった。そこはもう昌平の地で、地下鉄五号線の終着駅、天通苑北からさらに白タクに乗って十分くらいのところに位置する王府花園の超高級戸建住宅である。

記憶のなかだけにしか存在しない一九七〇年代には、三環路沿いの北大平庄までゆけば、あたりには一面縹渺とした原野が展開していた。狼にでも出くわすのではないか、と感じたほどだ。そこを路線バスに揺られ、学院路まで一時間ほどのどこまでも果てしがないのではないかと思われる銀杏の並木道をたどり、語言学院まで帰ってゆくのが週末の黄昏どきの想い出だ。中関村などは「科学の杜」と称され、北国の樹林のなかにある小村にすぎなかった。北京の街は一九五〇年代まで、城壁のなかになかば眠っていた。街を取り囲む壁をこわして敷設したのが二環路である。二環路内に存在したころの北京は、文化的にもきわめて濃厚な雰囲気につつまれていた。そこには、歴史都市としての小宇宙が存在していた。現在の肥大し、奇形的に発展した北京は、世界中のどこにでもあるただ大きいだけの味気ない都市にすぎない。すでに往年の愛着も、記憶の往還も、欠片(かけら)ほどにしか残っていない。

画像3

始発の路線バスが混んでいると知ったのは、いつのころだったろう。そして、始発はいまでもまだ人がいっぱいだ。まだ暗い早朝、鉄道駅へ、長距離バスセンターへとむかう乗客の数は意外に多い。計程車(タクシー)に乗ればよいではないかと思うが、ちょっとちがう。バスはタクシーの五十分の一くらいの料金で乗ることができるけれど、それだけではない。あのちょっと押し黙った、まだ薄暗い車内で、モノクロームの街にだんだん色彩が浮き上がってくる刹那を、知らない乗客どうしが窓ガラス越しに黙って見つめている連帯感みたいな心地は始発バスを知る者にしかわからない。想像の共同体といってもよい。

街には、そこだけにしかない匂いがある。四十年たって、当時とおなじ裏通りを歩いてみると、ああ、これこれ!と感じる瞬間がある。それが街の匂いなのかもしれない。時代も、年齢も、容姿も、体重も、なにもかも変わってしまったのに、街の匂いだけはまだそこに潜んでいて、一歩足を踏み入れた瞬間、とっくのむかしに忘却したはずの記憶が電光のごとくに甦ってくる。

胡同(モノクロ、縮小)

香港、上海、広州、北京と中華圏で十六年間くらしてきた。すでに棺桶に片足を突っ込んだ腐れ老残となったいま、これらの都市で自分にいちばん影響を与えたのは果たしてどこだったのだろうか、と遠目をしながら考えてみる。そして思い当たるのが、やはり北京なのだ。一九七〇年代の、あの糞ったれな環境だったけれど、そこには厳しい思想統制と貧困のなかで生きる無数の同世代の仲間や先輩たちが蠢いていた。あの時代の北京の生活がなかったら、おそらくまったく別の人生を歩んでいたにちがいない。

人の一生には、いちどくらいあのような生活空間があってもよいと思う。大学の学部にいたころ、まだ国交を回復したばかりで海のものとも山のものともつかない無残に朽ちた歴史都市を、パリとかロンドンとか、あるいはローマなどのもっと魅力的な幾多の選択があっただろうに、よくぞ手を伸ばして主体的に掴みとったものだ。人生なんて、ひょっとしたら偶然の産物なのだろう。そう思わないかぎり、あの北京時代のあれこれはとても説明がつきそうにない。

Leica M3+M.ROKKOR 28mm 1:2.8 など


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?