エルピーダ戦記 異色の経営者坂本幸雄氏と、ある半導体メーカーの盛衰
新しく始まる物語、終わりを告げる物語
2月24日、熊本は熱狂に包まれていた。日本政府の支援を受け、TSMCがソニーやデンソーといったクライアントとともに建設を進めている半導体工場JASM、"Japan Advanced Semiconductor Manufacturing" の開所式が行われたのだった。大勢の報道関係者が見守る中、岸田総理大臣からお祝いのビデオメッセージが寄せられ、台湾からはTSMC創業者にして半導体業界の生きた伝説モリス•チャンが足を運ぶ。日本の半導体産業復活の鐘が、熊本から鳴り響こうとしている。
熊本で熱狂的なイベントが行われる少し前の2月14日。1人の男がひっそりと世を去った。彼の名前は坂本幸雄。日本の半導体史上で最も異色の経営者。ある時は日の丸半導体の救世主と崇められ、またある時は売国奴と罵られた。
今日2月27日は彼が全力で経営し、世界一の夢を見た半導体メーカー、エルピーダメモリが倒産した日でもある。衝撃的な会社更生法の申請から12年。会社の名前も世間から忘れられはじめ、今では「エルピーダ」でニュースを検索しても競走馬の記事が多くヒットするくらいである。
坂本氏とエルピーダメモリの軌跡が世間から忘れ去られる前に、エルピーダメモリの主力拠点であった広島工場に数年間出入りしていた人間の一人として、自分の知る限りのエルピーダと坂本氏の歴史を備忘録的に記しておこうと思う。
日本のDRAM産業とエルピーダメモリの成り立ちについて
1999年12月20日、NECと日立のDRAM事業の統合によりエルピーダメモリが発足した。
DRAMとはDynamic Random Access Memoryの略であり、キャパシタを記憶素子として用いる揮発性(電源を切るとデータが消える)メモリのことを指す。
方眼紙のように格子状に配置されたセルトランジスタ一つ一つにキャパシタが接続されており、行を指定するワード線と列を指定するビット線の組み合わせで指定アドレスのセルトランジスタが選択され、接続されたキャパシタの電荷を充放電することで1,0のデータを記録する。微細加工されたキャパシタの容量は非常に小さい(数十フェムトファラドオーダー)ため、配線上のわずかな電位差をセンスアンプで増幅して外部と信号のやり取りを行っている。
1ビットあたりの単価が安価で比較的高速なため、パソコンやスマートフォンのメインメモリとして広く用いられており、2024年の市場規模は600億ドル(約9兆円)ほどになるとも予想されている。数ある半導体製品の中でも、市場規模の大きいデバイスと言えよう。
今から50年ほど前に発明されたDRAMは、大型コンピュータへの搭載に始まりPCへと活躍の場を広げ、年々売り上げを伸ばしていった。1990年代にはWindows95の発売を機にPC市場が飛躍的に拡大。足並みをそろえてDRAM市場も急成長したものの、ピーク時に80%を超える世界シェアを誇り、それまで圧倒的な存在感を示していた日系メーカーの影響力は年を追うごとに低下していった。
要因は複数ある。日米貿易摩擦の影響で日本製半導体が槍玉に挙げられたこと、円高が進み日本から海外への輸出が不利になったこと、80年代にアメリカや日本のメーカーから技術導入をして市場に参入した三星電子や現代、LGといった韓国系メーカーが競合に育ってきたこと、日系メーカーに押されて衰退していたはずのアメリカから新興勢力としてMicronが台頭してきたこと、台湾でもDRAMに参入するメーカーが次々と現れてきたこと。市場のプレーヤーが増加し、競争は激化する一方であった。
半導体業界は景気変動の激しい業界として知られている。数年おきに繰り返される景気の波は「シリコンサイクル」と呼ばれている。黒字の時は紙幣を印刷するかのごとく儲かるものの、赤字の時は数百億単位の損失が出るジェットコースターのような世界だ。
DRAM市場も例に漏れず、産業の規模が拡大するにつれて振れ幅も大きくなっていった。様々な事業を抱える電機メーカーにとって、次第にこの利益の振れ幅は許容し難いものになっていった。
こうした状況の変化に対して、各社の対応は別れた。DRAMから撤退してシステムLSIやフラッシュメモリに活路を見出す会社もあれば、どうにかDRAM事業を存続させようとした会社もあった。後者の代表格であったNECと日立は会社の垣根を超えた事業再編により苦境を乗り切ろうとしたのだ。
だが、NECと日立のDRAM事業が統合して成立したエルピーダメモリの船出は必ずしも恵まれたものではなかった。大手電機メーカー2社の出資によって成立した事情ゆえ、たすき掛け人事が横行したり、業務フローの統合に難航したりと課題が続出。瞬く間に業績は悪化した。エルピーダの苦境を横目に競合各社が業績を伸ばした結果、世界シェアは3%を切るまでに低下。エルピーダの消滅は時間の問題かと思われた。
このピンチに対し、一人の男に白羽の矢が立った。彼の名は坂本幸雄。日本半導体業界における、異色の経歴を持つ経営者である。
経営者 坂本幸雄氏について
坂本氏の半導体業界でのキャリアは、大手半導体メーカー、米テキサスインスツルメンツ社の日本法人にて始まる。
高度な専門性を要求される半導体産業において、通常「畑違い」という言葉は大学での専門と仕事で求められる専門性が違う事を差す。例を挙げると、研究室では自動車のエンジンの燃焼を扱っていたけど、仕事では半導体デバイスの信頼性評価をおこなっているというようなケースだ。
坂本氏の場合も半導体が専門ではない「畑違い」からのキャリアスタートであった。ただし、氏の場合はこれが「日本体育大学卒」という、研究分野違いどころか理学・工学の世界からもかけ離れた出身だったことが特筆される。
文字通り「住む世界が違う」状態からキャリアを始めた坂本氏の最初の仕事は、半導体工学の専門性を要求されない倉庫番だった。坂本氏が普通の人間であったなら、そのまま定年まで倉庫番の仕事で終わっても不思議では無かったのだが、どういうわけか上司の覚えがよく、持ち前のバイタリティと仕事の速さを武器にして瞬く間に頭角を現し、テキサスインスツルメンツの日本法人副社長にまで上り詰めた。
余談だが、坂本氏が海外の要人との会合中の雑談で、自分の専門分野の話題になったときに「Physical Education」と答えたら「Physics」の言い間違いではないのかと突っ込まれたとの逸話がある。体育会系出身者がこの業界で要職に就くという事は、それくらい珍しいものなのだ。
その後、坂本氏は台湾の半導体製造メーカーUMCに売却された元新日本製鉄の千葉県館山市の半導体工場や神戸製鋼とテキサスインスツルメンツが合弁で経営していた兵庫県西脇市の半導体工場を渡り歩き、経営者としてのキャリアを積み重ねていく。
日本の半導体業界の救世主としての活躍
エルピーダメモリの社長に就任した坂本氏は、悲惨な状況を改善すべく、様々な対策を矢継ぎ早に打っていった。
まずはたすき掛け人事の廃止。元々の経営陣を一掃し、出身母体に関係なくやる気と能力のある人材を引き上げ経営幹部に登用。NECや日立といった親会社からの支援に頼っていては意思決定が遅くなるため、独立志向を強めIntelから資金を獲得。元々NECの拠点であった広島事業所を譲り受け、集めた資金で自前の新鋭工場を建設。
また坂本氏の社長就任と前後して、エルピーダは三菱電機からもDRAM事業を譲り受けた。他の総合電機はDRAM事業から撤退していたので、この時点で日本でDRAM事業を行う会社は実質エルピーダメモリ一社になった。
※実をいえばこの表現は正確ではない。沖電気とその半導体事業の後身であるラピスセミコンダクタが最近まで旧式のDRAMを細々と販売していたからである。とはいえ、先端のDRAMを扱う会社は日本でエルピーダ一社であったことに間違いはない。
エルピーダメモリが三菱電機のDRAM事業を譲り受けたことは経営戦略にも大きな影響を与えた。三菱電機は、1994年に台湾に設立された新興DRAMメーカー、力晶科技(通称Power Chip)の設立にかかわっており、ここにDRAM技術を供与して生産委託をしていた。エルピーダメモリの事業譲渡後もこの関係は継続されることになる。
こうした情勢の中、坂本氏はエルピーダの成長戦略の立案を進める。その概要はこうだ。
価格競争の激しいPC向けDRAMは台湾Power Chip社に生産委託し、エルピーダはそれを自社ブランドで販売する。Intelからの出資を元手に建設した新鋭広島工場は、R&Dの拠点と高付加価値製品の生産に充てる。
高付加価値製品とは、高い信頼性が要求されるServer用途、2000年代に入って市場が伸びつつあった携帯電話(低消費電力が要求される)や、デジタル家電に向けた製品を指す。
そうやって利益の出せる市場に各工場の経営資源を集中させつつも、一方ではエンジニアの刺激になるように、自社の広島工場と生産委託する台湾Power Chip社の工場を相互に競わせ、さらなる生産性の向上を図る。そんなシナリオだった。
坂本氏の成長戦略は見事に的中。経営が軌道に乗ったエルピーダメモリは業績を上げていく。会社は黒字化し2004年には東証一部に上場。2006年には日立系の後工程半導体製造会社だったアキタ電子も傘下に加えてグループ会社の秋田エルピーダとし、日本国内での後工程生産能力も増強。市場でのシェアは右肩上がりとなり、遂には世界三位まで成長を遂げた。その活躍ぶりを見て世間は坂本氏を絶賛し、「日本の半導体業界の救世主」とまで呼ばるようになった。
絶頂からの転落
坂本氏はエルピーダメモリを世界一の半導体メーカーに育てることを最終的な目標としていた。世界一の半導体メーカーの規模を想定すると、現状の広島工場と台湾Power Chip社への生産委託だけでは不十分である。
次なる一手として、生産委託にとどめていたPC市場への本格参入を目指し、Power Chip社と合同で台湾にPC向けDRAMの生産を目的とした合弁会社Rex Chip社を設立。フル稼働時には世界一の生産キャパになる予定だった。
が、ここで運命は一転する。Rex Chip社への巨額投資を実施した直後の2008年、世界を金融危機が襲う。半導体市場もその影響から逃れることができずエルピーダメモリも巨額の赤字を計上。一転経営危機に陥る。しかし坂本氏はへこたれない。ピンチをチャンスに変えるべく、日本と台湾の国境を超えた大型再編でこの危機を乗り越えようとしたのだ。
台湾にはエルピーダが提携しているPower Chip社を始め、複数のDRAMメーカーが点在しているが、それらを統合して台湾メモリを設立する。台湾のDRAMメーカーは各社それほど規模が大きなく、技術面でも海外からの支援に頼る状況であった。が、全社まとまれば生産能力は世界一になる。足りない技術はエルピーダが支援する。この構想に日本政府と台湾政府が資金援助をする。こういう筋書きだ。
結論から言うと、この構想は部分的にしか実現しかなった。日本政府から公的資金は得たが台湾メーカーの統合はとん挫した。結局、金融危機後にエルピーダが得られた生産能力は自社の広島工場と合弁で設立したRex Chip社に加えて、従来から生産委託していたPower Chip社、新規に技術供与をしたProMOS社、一部製品を買い付ける契約を結んだWinbond社と、個別での提携にとどまった。台湾で最大の勢力であったNANYA technologyは米Micron社の陣営に入り、全台湾メーカーの統合は幻に終わった。
社長就任後、数年間にわたって活躍してきた坂本氏の手腕にも、しだいに翳りが見え始めていた。
そして倒産へ
2008年の金融危機をエルピーダメモリは日本政府からの公的資金によって辛くも乗り切ることができた。そこから数年間は小康状態が続く。この時期エルピーダは次の成長分野としてスマートフォン市場に目をつけていた。米Apple社のiPhoneに自社のメモリが採用されたり、技術開発においても世界最先端のプロセスノードとなる製品開発が成功したことを宣伝している。(最も、資金的に余裕がない時期だったため、開発にはかなり無理をした模様である。長時間残業の常態化や、製造装置ベンダーにはかなりの無理を言って煙たがられていたという話も耳にしている。)
なお、エルピーダメモリは2008年の金融危機あたりから会社の成長に向けて業界再編以外にもいくつかの施策を打っていた事を記載しておく。ただし、どれもうまくいったとは言い難い。
DRAMの技術開発を加速するために、ドイツのQimonda社と提携したものの、肝心のQimonda社が金融危機のあおりを受けて倒産。
主力拠点の広島工場でのフラッシュメモリ生産を計画し、NOR型フラッシュメモリの大手Numonyx社と提携するも、競合の米MicronがNumonyxを買収して計画が行き詰る。
NAND型フラッシュメモリ参入を目指してAMDと富士通が合弁で経営していた米Spansionと共同開発を行うも、Spansion自体が金融危機で一度潰れた会社であり、資金的余裕のなさから製品試作はできたものの量産にたどり着けず。
DRAMやNANDに変わる次世代メモリとして米Ovonyxと提携してPRAMを試作したり、シャープや東大の竹内健氏と共同で次世代メモリのReRAMを開発するも、商業的には成立せず。という具合である。
金融危機後の小康状態が過ぎ、2011年に入ると新たなる危機がエルピーダを襲う。再び訪れた半導体不況と日本の政権交代により生じた歴史的円高。
再び窮地に追い込まれたエルピーダは、またも政府に援助を乞うのだが、前回の金融危機時に二人三脚で政府を動かしていた経済産業省の官僚がエルピーダ株のインサイダー取引でまさかの逮捕。政府支援の望みが立たれる。
他社との業務提携に活路を見出そうとしたが、交渉中の米Micron社のCEOが飛行機事故で死亡するという想像もつかないトラブルまで発生する。日ごとに悪化する経営状態を見て、取引をしていた金融機関は資金の返済を迫る。打つ手のなくなったエルピーダメモリは、自力での再建を断念し会社更生法を申請。2012年2月27日に倒産へと至った。
Micron傘下に入るエルピーダ
会社更生法申請後、坂本氏はエルピーダの存続をかけて奔走する。その甲斐あってか米Micronの傘下での再建が認められ、エルピーダメモリはマイクロンメモリジャパンと名前を変えて存続することができた。坂本氏は、Micronの買収が決まると会社を去った。彼は自身の最後の実績として「リストラ無しでエルピーダを存続させた」ことを誇りとし、講演会や著書の中でもたびたび言及してた。
だが、この発言には疑問符がつく。米Micronはエルピーダ買収後「3年はリストラしない」との約束をしていたが、買収からちょうど3年経った2016年にリストラを敢行。人員削減と秋田工場の台湾企業への売却が行われた。(のちに秋田工場は閉鎖)
また、エルピーダ本体は会社更生法の元で再建できたものの、負債が全額弁済されたわけではない。約8割の負債は帳消しとされて取引先へ影響を及ぼした。
東京エレクトロンやアプライドマテリアルズといった大企業であればある程度の損失は許容範囲だったかもしれない。エルピーダメモリ向けの売り上げは、数ある取引先の一社分、せいぜい数%程度と想定されるからだ。だが、中にはエルピーダをメインに取引していた家族経営の中小企業もあった。そういう会社から見れば、会社更生法による負債の帳消しは死活問題になっただろう。
会社更生法申請による不幸な被害者が出たこともあり、債権者の中には坂本氏を訴える者もあらわれた。かつての救世主は会社をつぶした戦犯として糾弾されるようになったのである。
夢よ再び
エルピーダメモリがMicron傘下になったのち、坂本氏はしばらく会社経営とは無縁の生活を過ごしていた。当時の様子から察するに、講演活動やコンサルティングの仕事をしつつ余生を過ごすつもりだったと思われる。が、ある時ふいに坂本氏の心を動かす何かの出来事があったのだろう。日本の半導体エンジニアを集めて中国資本をバックにDRAMメーカーを設立する計画をぶち上げたのだ。
日中の技術と資金を集めた新会社、「サイノキングテクノロジー」設立。このニュースに関係者は皆驚いた。Micron傘下でくすぶるエルピーダのエンジニアを再結集することを思い描き、「夢よ再び」とばかりに活動を再開した。
しかしながらこの計画は日の目を見なかった。中国側が高額で日本人エンジニアを雇う計画を嫌ったとも、資金を拠出する予定だった地方政府の気が変わったともいわれているが詳細は不明である。
その後も坂本氏は、何度か日本の技術者を中国の資金で雇いDRAMメーカーを作る計画を繰り返す。
2回目は紫光集団と組んだ「IDT株式会社」、3回目は深圳を拠点にHuaweiの資金が出ていると噂された「スウェイシュアジャパン株式会社」である。
だが、いずれの計画も中国資本という事で多くのエンジニアに敬遠され成功することはなかった。日本半導体の救世主として期待された時の輝きは、晩年に至って完全に失われてしまい、坂本氏はそのまま生涯を終えた。
ただし、後から思えばDRAMメーカーを再興するチャンスが微塵もなかったわけではないと筆者は思う。事実、エルピーダ倒産後にスパコンベンチャー「PEZY Computing」の関連会社としてウルトラメモリという会社が設立されている。
この会社は元エルピーダのCTOが初期の代表を務め、現在ラピダスのキーパーソンとして名前が挙がっている黒田忠広氏と組んで特殊な高速メモリを設計することを目的としていた。AIの学習に高速なメモリが必要とされている現在の視点で見れば、特殊な高速メモリの開発には可能性があったのかもしれない。残念ながら「PEZY Computing」社は会社代表の助成金詐欺として問題になり、大きく成長することはかなわなかった。(ウルトラメモリ社自体は現在も存続している模様)
結局のところ、坂本氏とエルピーダメモリは運に見放されていたのだろう。この記事を書くために過去のニュースを振り返っていたが、経済産業省の官僚の逮捕や提携交渉相手の飛行機事故といった悪条件は、どう頑張っても予想不可能だった思われるのだ。
結びに
世界一の半導体メーカーを目指した坂本氏の夢は最後までかなうことがなかった。2024年現在、日本ではJASMやラピダスの設立の報道が目立ち、政府のバックアップを受けて半導体産業の復興が進められているが、仮にこれらの取り組みが全て成功して再び日本の半導体産業が隆盛を極めるようになったとしても、坂本氏がかつて願ったその光景を見ることはもはや不可能となってしまった。
坂本氏の世間の評価や功罪はどうあれ、日本の半導体暗黒時代を全力で押し返そうと挑み、そして敗れ去った坂本氏の無念はいかばかりだったであろうか。このまま彼が歴史のかなたに忘れ去られてしまうのはあまりにも口惜しい。そう思って私はこの文章を書き残すことにした。
エルピーダメモリの挑戦と失敗は日本の半導体産業史に残る事件であるが、倒産から12年が経過した今となっては、坂本氏以外の当時の経営陣もほとんどの方が退職されていることだろう。
もう少し時間がたてば当時の記憶が完全に失われてしまい、エルピーダメモリの実態や倒産の詳細な背景は誰も分からなくなってしまうかもしれない。願わくばどなたか関係者が当時の回顧録を書き、後世への教訓として当時の記録を残してくれないものだろうか。
最後になったが、半導体産業の荒波を全力で戦った経営者、坂本幸雄氏の冥福を祈ってこの文章を終わりにしたい。
坂本さん、76年の生涯お疲れさまでした。
どうか、安らかにお休みください。