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限界末端技術員Cのぼやき

 技術員Cという言葉は存在しない。存在するのは、主任技師、技師(A)、技師(B)、技師(C)だ。むろん、私の今の身分は技術員C程度であろう。人権は存在しない。人権にまつわる行政計画を作成しているにも関わらず、なんとも皮肉なことだw。リベラリスト、審議会委員、議会、首長、無知役人、鉄人技師、使えないAIによってかき乱され、こき使われる自分が情けない。これが末端労働者というヤツだろう。
 世の中というのは、良い人ほど損をするような仕組みになっているようだ。このシステムを変えること自体がナンセンスなのであろう。所詮すべて、自己満、マスタベーションであるためだ。そもそも、自分自身が蚊帳の外にいる癖に、意見したり批判することは、図々しくおこがましいと感じる。自身が地べたを張ってもがき苦しんだ結果として、一筋の改善策が見つけられるのではないか。私は、私自身がおかれているこの環境を変えたいと初めて感じた。まずは、強く自身に満ち溢れた性格に変えなければいけないのだろう。
 とある人間によると、私の課題は自分の意見を持ち発言すること、自分をアピールすることだそうだが、何も出てこない。私の心は髄まで誰かに持っていかれ、残置し肥大化しているのは汚く、醜い脂肪のみであるようだ。こんな状態では何も出てくるものがない。強いて意見するならば、公共コンサルとは公益のために尽くす黒子的存在で、マスターアーキテクトのように存在感を出すものではないと思っている。我々は芸術家ではないのだ。ただ、社会を深く観察し、分析し、社会を緩やかに変えられるように少しだけ後押しをさせられたら本望だと思う。仮に行為の9割が無意味なものであってもだ。世の中、所詮そんなものだ。無駄な行政計画の立案、インチキB/Cから公共投資を促し特定の利権と雇用を守ることや、閉塞的で迷惑な高齢者コミュニティの手足になることも、少しは意味があるものだったのかもしれない。だが、確かに公共性を謳う以上、多くの人に納得してもらえる理論を構築する必要がありそうだ。道路族、都市族、地縁族、景観族、UD族、土地利用族、福祉族、ジェンダー族、文化アート族、、、族ごとに視点や重要視するポイントは違う。私はあらゆる軸について理解はできるが、どれか一つの軸で物事を語ることが苦手なようだ。そして、自分なりの物事に対する課題を認識できていないようだ。このままでは一生、成長することはないだろう。
 あ〜いつになれば、生きることに希望の光が見えるのだろうか。私はただ、目標、目的や希望もなく闇雲にトンネルを掘っている最中だ。一体どこに向かうのだろうか。


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