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世間への「ものごころがついた」のはいつだった?

世間への「ものごころがついた」のはいつ頃だったのか、ふと気になって記憶をたどってみました。あのとき自分はこうだったといえる最初の時のことです。

「ものごころがつく」とは、本来の意味(1)とはちがいますが、
・記憶をたどれる最初の時期

「世間への」と枕をつけたので、
・世の中の動きとその時の自分とが1対1で語れるとき
ということにします。

「ものごころ」がついたのは幼稚園のとき。土をこねて硬く丸め、ボールにして遊んでいたのが壊れたこと、給食の粉ミルクが飲めなくて残したこと、鮮明なマイナスの記憶です。目に焼きついていますが「世間」はありません、自分だけです。

小学生のとき、記憶に残るモノといえば先の東京オリンピックがあります。テレビで見たのは確かですが、その後も映像を何度も見たこともあり、そのとき自分が何をしていたのか、時間の流れの特定場所に入れられません。まだ「世間」と「自分」とは距離があります。

中学生のころはどうだったでしょうか。昼も夜も部活の毎日、淡い思い出もあります。小学生の時に比べ格段に思い出す「絵」が多い。でもこれも世間の動きとは、からまない。きっかけらしきモノは「本」でしょうか。シャーロックホームズとか、太閤記、徳川家康、伝記モノ、落語本などいろいろ手にとりました。でも「世間」と時間がつながりません。

高校生のころでしょう。部活はせず、早帰りでも勉強はそこそこ。本はよく読みました。ノンフィクションでは水俣病など公害問題、ベトナム戦争、未開地探検モノなど、グッと「世間」に近くなりました。

そんななか、連合赤軍の「浅間山荘事件」が起こりました。2月、ちょうど期末試験の最中のことです。機動隊の突入がはじまり、そのままテレビを見続けて翌日の英語の試験がさんざんでした。これは鮮明です。もらった点数まで覚えています。

やっと世間への「ものごころ」がつきました。16歳のときです。

じゃあ、その後はずっと鮮明に世間とつながっているのかというとそうではありません。とびとびです。この穴を埋めていくのはおいおいやっていきたいと思っています。

ところがその後、自分の時間経過の記憶のほうがだんだん不連続になってきたのです。年齢とお酒のせいかもしれません。
つぎは「ものわすれ」がついたのはいつかを探りたいと思っています。


附(1)「ものごころ」がつくとは、
世の中のものごとが何となくわかってくること(明鏡国語辞典)