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仏壇仕舞い、魂が抜ければただのお人形

田舎の家の仏壇仕舞い。ご住職に相談したら、魂抜きのご供養をすれば阿弥陀さんも引っ越せるというのでお願いしました。終われば阿弥陀さんもただのお人形、箱詰めにして宅急便で送りました。これ、よくできたシステムです。

30年前に父が亡くなり、5年前には母親も。田舎の家は誰も住まず朽ちて荒れ放題、今やハクビシンがワガモノ顔なので、仏壇は戸を閉めて安全対策して位牌は持ち帰っていた(本当はこれも動かしてはいけないそうですが)。今回やっと家を処分できそうなので仏壇を仕舞うことにしました。

ご住職はまだ30代、雨降りで足もとが悪いのと、家のなかが汚れているのでと前もって伝えておくと、ジーンズと運動靴の上に法衣というラフな姿。結構です。供養が終わって聞いてみた。

「どれを持って帰ればいいのですか」
「真ん中の阿弥陀さんと左右のふたり、法然さんと善導大師。それとその屏風みたいなもの」
「小さい仏壇を買おうかと。狭いので入りきらないかも」
「阿弥陀さんおひとりでもいいし、小さい阿弥陀さんに替えても」
「そんなのでいいの」
「大丈夫です、魂が入ってないのでただの人形ですから」

そこには何もない。あるのはただの「もの」。
必要なときはお願いすればまた来てくれる。
便利な良いシステムですね。

「踏み絵」を思い出しました。キリシタンではない証としてキリストやマリアの絵や像を踏ませる。最初は効果があったが、そのうち「内面で信仰さえすればよい」という考えがでて、隠れキリシタンは堂々と踏んだという。これも一種の魂抜きかもしれません。

信心はこころの問題。
生きている人が都合の良いように解釈して振る舞えばよい。
これでいいのですね、阿弥陀さん?
おっと、近くにはいらっしゃらなかった。