見出し画像

#117『ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ』ウエイン・ダイアー

 自己啓発本の中では出色の出来ではないだろうか。著者の名前は☆#68『喜びから人生を生きる』にも出てくる。その著者に死後の世界のメッセンジャーとしていわば推薦状を書いたのが、このダイアーなのである。そのような人なので、渡部昇一さんが訳者というのは意外な感じがした。渡部昇一さんはスピリチュアルの方には手を出さないはず。「自助論(セルフヘルプ)」を重んじる人だからである。
 訳者後書きによると、著者は「自助論(セルフヘルプ)」からスピリチュアルへ、大きな転身をしたとのこと。それで違和感の謎が解けた。
 私は自分自身のヒーラー体験や、古風な思考回路など諸々の理由によって、「①保守的に考え尽くして⇒②霊的に飛躍する」というのが最も高く飛べる秘訣だと信じている。今時のスピリチュアルは①をすっ飛ばしているものが多いので「HAPPY HAPPY」と謳っているが、そういうものは好きになれないし、信用も出来ない。いや、それで他人がハッピーなのは結構だが、そういうハッピーは私は欲しくない。
 なんとまあ、頭の固い化石だ!俺は。

 そういう訳で、私は自助論の方が好きなのである。自助論は「とにかく自分で努力せよ」と言う訳だが、しかし完全自力の世界観ではない。自力を尽くすと「他力」がちゃんと近付いてくる、ということを言っている。つまり人事を尽くして天命を待つ、ということである。
 人と神が出会うのは50:50の所なのか? いや、しかしもしかしたら40:60の所かもしれない。この10ポイント分の移動が、ダイアーがその転身によって辿った距離である。これを正しいとも間違っているとも言うことは出来ない。神と出会う地点は人それぞれ、色々な所にある。
 私は渡部昇一氏を敬愛しているので、氏がこの本を訳すことによって、スピリチュアルな世界に触れてくれたことが、他人事ながら嬉しかった。おかしなことだが、それが私にとって本書の一番の読書体験になっている。というのは、20年にわたってダイアーを訳してきた「付き合い」がなければ、氏はこのようなスピリチュアルな本には関心を示さなかっただろうから。
 
 本書は読みながら深く熟考することが多かった。最近、私は変化の時期にあった。それがひとまず止んで、今は凪の状態で、実は数日前まで調子が悪かった。人生の迷子になってしまっていた。そんな時にこんな本を読むと、自分の至らなさが色々見えてくる。おかげでヒントも得られた。

 ただ、それを踏まえて批判をしてみたいと思う。スピリチュアルな教えによれば、「全ては思考から生まれる。思考こそが実体であり、現象は写しである」ということになる。だから自分を恩寵の感覚で包み続けることこそ幸せへの道である、と説く。
 実際著者は「悲しみというものは世界に存在しない。ある現象を見てそれを「悲しみ」と見なす心があるだけだ」と言っている。それでこの手の話ではよく使われる、「足りない」ではなく「こんなにある」と考えよう、などと続く。
 しかしこの言説は本当だろうか? 私は、氏は、そしてこれに関するスピリチュアル系の教えは間違っていると思う。
 自分の気持ち一つで現実が違って見える。これは真実だ。
 そして見方を変えれば全然違う現象が起きる。これも真実だ。
 しかしそれを言えるのは、そういう変化の法則が通用する世界に生きているからではないか?
 例えば私たちが当たり前のように使っているスマホその他に使われるレアメタルはほぼ100%がコンゴ(だったか)で採掘されている。そこの子供たちは当然、過酷な環境で児童労働を余儀なくされている。体を破壊され尽くしてしまう子供もいる。彼らの悲しみもまた「完全に主観的なもの」だろうか? そういう子供たちの舐める苦しみが前提にあって、私たちはスマホ一つでパッと求める場所や人や、「天使のメッセージ」に出会えたりする――心をポジティブにするだけで、瞬間的に。いい気なもんである。
 あの子供たちも、見方を変えれば瞬時にパッと宇宙が応えて何の苦しみもない別天地に連れ出してくれるのか? 仕事を突然やめさせてくれるのか? 
 そんな訳はないだろう。
 私たちがスマホから核兵器まで、半導体を求め続ける限り、彼らに一生そんなチャンスはないのだ。
 つまり、著者の主張は恵まれた国でしか通用しない。だから恵まれた国の恵まれた法則、と言えば良いのだが、全人類の自明の法則、と言い切ってしまう所に、私は白人の限界を感じざるを得ない。

 私たち日本人は自己啓発やスピリチュアルやその他諸々の輸入思想にかぶれているが(私はその辺りも検分するために色々読んでいる)、どうもそろそろ日本人には日本人に固有の哲学や法則が発見されなくてはならないのではないかと思えてならない。
 そこで☆#116『人生がときめく片づけの魔法』のことを思い返すのだが、あの本は「捨てるものにも感謝を」というように、物事を物質一辺倒で見ておらず、情緒ととても重視している。
「捨てれば楽になる」もし、この一行だけだったとしたら、「自分が楽になるためには何を捨てても良い」という発想まで飛躍するの一瞬のことだ。しかしこれをもし人間関係でしたら、大変な非道である。ゆえに著者は「捨てる」行為によって開く溝を、感謝の心で埋める大切さを説いている。私はそれを、「日本の古来の心の道の復活と、現代版のアップデート」と見た。
 同じように、自己啓発やスピリチュアルの教えを見る時、日本人はこう考えるのが良いのではないかと思う。「私たちは幸運にも、心次第で幸せになれる国に生まれている。しかし世の中には恵まれない人々もいて、彼らは心次第で幸せになるなんてことは出来ない。しかし変わってあげることも出来ない。だからせめて私たちは恵まれた国に生まれた以上、輝こうではないか。そしてそれが巡り巡って、彼らを少しでも助けられるように努めようではないか」と。
 無論、これは一例である。他にも色々、日本人ならではの「現代版」の思想があるかもしれない。皆でそういうものを考えたいものである。
 
 これに比べると、弱き人たちの存在を眼中から外して「人生は必ず思った通りになる」と言い切ってしまうのは、どうも覇権国家特有の思考回路に思えてならない。しかし「その地特有」という意味では、この思想も所詮ローカルである。宇宙のユニバーサルな真実ではない。
 私たちは、長らくこういう思想に騙されてきたのではないだろうか? 一地域のローカルな思想をグローバル、ユニバーサルなものだと思い込み、そして自分たちのローカルな思想は何だろうと掘り起こすこともせず、ひたすら個人利益を追求せんがために「喜び」や「わくわく」や「魂の視点」を得ようとし続けているのではないか。あえて言おう、覇権国家(アメリカ)と属国(日本)では、世界観は全然異なる、と。にもかかわらず、私たちは自分たちがあたかも覇権国家の民と同じ夢を見ているとでも錯覚しているのではないか?

 私たちは多くの固定観念に取り巻かれているが、そういうものから可能な限り自由になって、「今、この自分の目」から見える世界をそのまま観察し、描写したら、どのような法則や目的や障害が浮かび上がってくるだろう?
 私は今、そういうことをとても深く考えたいと望んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?