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#184『こわれた腕輪』アーシュラ・ル=グウィン

 いわゆる『ゲド戦記』第二巻である。もう20年近く程も前になるのか、ジブリがゲド戦記を手掛けた折、購入した。その当時、私が持っていたのは第一巻だけで、後の二巻は図書館で確か借りたのだった。ジブリが映画化するのに連動して廉価の文庫版が大量に刷られ、このままだと単行本が手に入らなくなるかもと思って、急いで買ったのだ。時流に乗って大売り出しされる廉価版に目もくれずに消えゆく旧版を敢えて書い、しかも断固ジブリ版は観ないという逆行ぶりであった。あの映画作品はいまだに観ていないし、多分この後も観ることはないと思う。あれは…良くない映画である。作品の出来どうこう以前に、大きな不義理を原作者にしている。あーあ、嫌だな、金の世界は、と思った。
 まあ、それはさておき。
 この第二巻は、第一巻に比べたらはるかに退屈である。今回2.5回目くらいの再読なのだが、印象はまったく変わっていない。前半はほぼ死んでいる。中盤から面白くなってきて、後半は大きな流れに乗るような解放感があるが、道中がなかなか重い。  
 本作は構造的にどうしても退屈にならざるを得ない。というのはゲドから全く視点を離した所から話が始まり、しかもそこが面白くない。著者の長所でありまた短所でもある箇所かと思うのだが、叙述し出すと割と読者を置いてけぼりにしていくタイプである。「うーん、よく考え抜いていますなあ!そしてあなたがその豊かな想像力のままに見た風景そのままなのでしょう。見事です!しかし残念ながら、当方それほどそこには興味がないのです…」的な感じ。前半部分、それでも人間関係のやり取りや会話の妙があったりしたら面白いし、より効果的な方法としては、そういう交流を通して世界像や風景を伝えていくのが良いのだが、その辺を無視してひたすら客観的な描写を続けてしまう。アチュアンの墓所などに何の興味もない読者には、退屈としか言いようがない。しかもこの辺り、読み飛ばしても全然本作を味わうのに支障がないと来ている。よって、不要である。
 しかし、今回読み直してみて、いやこれはむしろここを退屈に保つことがある意味では逆に効果的なのかもしれない、とも思ったりもした。四楽章からなる作品として見ると、
1:墓所の描写ー重々しく、陰鬱で、退屈
2:ゲドの登場ー緊張感の始まり
3:ゲドへの接近ー温かみのある心の交流
4:墓所からの脱出ー解放、優しさ、自由
 という感じになっている。3と4の部分はほのかな恋心が交流し合う感じ、とても心温まるものがある。だから1の部分は必要だったのかな、と思う。ただしそれが著者の計算通りの効果だったとは思わないのだが。
 
 さて本書の主題は「闇」なのだが、いまいちしっくり来なかった。ただ最後には「まあこの辺りのことかな」と収まりどころを見つけた気もするのだが。これは#183で書いた、ヒーラー的視点からであるが、ちょっと、間違えているんじゃないかなあと思った。
 第一巻において、ゲドは「影」と遭遇し、戦いを通して和合する。そしてゲドは精神次元を一つ上に高めることになるのである。
 第二巻において、墓所の「闇」と第一巻の「影」を同じものとしてゲドは説明している。しかしこの「闇」は明らかな「悪」とも説明されているのである。
 闇=悪という考えは、正しいとも言えるし間違っているとも言えるが、いずれにせよ一つの考えである。また別の考えには闇=陰というものもあり、この場合の陰は必ずしも悪を意味しない。第一巻における影は「陰」として扱われていたように思うのだが…。
 著者はユング心理学から多くのヒントを得ているが、ユングが説き明かした「影」なるものは、意識化されない心の領域を指すものであって、悪と完全な同義ではない。ただ私たちは社会的存在として善を自己の性質としたい欲求があるので、影の部分は無意識層に抑圧され、それはしばしば悪徳となって表出する、ということだ。
 第一巻の「影」はゲドから見ると悪だったが、最終的にゲドはそれと一体になることが出来たことからして、悪そのものだった訳ではない。「悪に見えていたもの」だったのである。また別の説明では「自分の一部とは認めたくない自分の一部」だったのである。
 と、ここまでのかなり高度な取り扱いを影に対してしていながら、第二巻では「純然たる悪」として闇を捉えてしまったのは重大な失点だと思う。アチュアンの闇=純然たる悪、これ自体は設定として問題ないと思うが、第一巻の「影」と同質のもの、としてしまったことは明らかな間違いである。闇というものはヒーリング哲学においても正確に捉えることが実は非常に難しい。分かり易く言えば、病気とは闇か、悪か、というような話だ。これは言うほど簡単な話ではない。
 ただ最後の部分で、テナーが知っていた人工的な闇と、墓所から出たことによって初めて知った天然の闇(夜の海と空)を、テナーの心の体験として峻別したのは良かった。それで、読者としても、「うん、まあそれなら…」と一つの妥協点をどうにかこうにか見出せた、という感じか。ただその場合は、ゲドの上述の理解が間違っていたということになるので、どちらにせよ論理的には破綻している。この点が本書の最大の弱点であると思う。
 テナーの性格と心の変化の描写はもうひと越えほしかった。強度の洗脳教育を受けてきた割に、解放後に驚くほど自由な心を得ている。それは読書体験としては嬉しいのだが、もう少し人の心は難しいのが本当である。
 やはり本作は物語の根本的なヴィジョンが、ちょっと荒削りだったのかな、という印象を受ける。

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