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☆#181『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ

 深く恐ろしく、そして信仰と生きる意味について書かれた衝撃的な本である。初めてこの本を読んだ時、私の中に大きな疑問と不満が残った。24歳くさいの時のことだったと思う。それで、この本に対しては大きな印象を抱いたにもかかわらず再び読むことがなかった。このたび開いてみて、以前よりはるかに深く鋭く感じるものがあった。これは死ぬまでに読むべき本、というよりむしろ、読まずに生きていてはいけないほどの本である。そう言っても全然誇張にはならない。
 ルワンダで民族浄化が起き、100日で100万にが虐殺された。著者はその中で生き残った。残されたのは命だけではなく、巨大な悲しみと憎しみもまた心に残った。その心がいかに浄化され、癒やしと赦しに向かっていったかということが恐ろしいまでの切実さで書き綴られている。
 読みながら何度自問したことだろう、この十分の一でも百分の一でも自分は誠実に自分の心と、そして神と向き合っていきているだろうかと。日々のつまらぬことや過去に起きた小さなことに囚われて、見るべきものを見ていないし、信じることや赦すことの価値を正しく知らぬまま生きている。
 勿論、著者のような凄惨な現実に身を起きたいとはとてもではないが思えないし、またそれは自分の人生に起きることでもない。しかしこうでもしなければ人には見えないもの分からないものがこの世界には存在するということもまた事実。
 冒頭に述べた、初めて私がこの本を読んだ時に抱いた大きな不満と疑問というのは「なぜこうまでしないと神は人を助けないのか、人の前に姿を表し、声を聴かせ、守ることをしないのか」ということだった。死と隣り合わせの極限状態で著者は神と出会う。神との邂逅は圧倒的なまでの癒しと清めと確信、そして物理的な暴力からの保護と回避を彼女にもたらす。しかしその恩寵に預からなかった人々は無残に殺されていった。「神はなぜもっと多くの人々を助けようとしなかったのだ。こんなに状況が極まってからようやく姿を表す神とは何なのか」。当時、私は本当に混乱してしまった。
 その当時の私の宗教観や神への理解は今の私のそれには到底及ばなかった。それに頭でどんなに考えても神や霊性や信仰を軸に生きていた訳ではなかった。今なら理解できることが沢山あった。それは以下のようなことだ。
・神は実在する。同様に悪魔も実在する。少なくとも実在すると言って差し支えない力の行使を私たちに対してする。
・神/悪魔は人間の想念、感情、エネルギーに入り込み支配する力を持っている。
・神/悪魔に遭遇するにはそれにふさわしい意識の次元に留まる必要がある。神は極めて高い精神次元で、悪魔は極めて低い精神次元で私たちと交流することを待っている。
・神は悪魔の力を圧倒する。

 善人だから神に出会える訳ではないし、神の保護を受ける訳でもない。ただ注釈すれば、「神の保護」を私たちは常に受けている。しかし私たちが自分たちの存在基盤をこの物理的生命にだけ求めるならば、神の保護を私たちが受けないことはしばしばある。事実そのように人々は殺されていったのである。しかし著者に対して霊夢において死んだ家族が語りかけるのは次のような言葉だった。「今、自分たちは神の御許で幸せにしている。だから私たちのことで悲しむことはない。罪を犯した人々を赦し愛しなさい」ということである。人間の存在の中核は霊魂なのである。
 人々は人々によって殺された。なぜそんなことを神は許可したのか、なぜ止めなかったのか、と怒りと絶望に満ちて問う時、私たちの心に神への反逆と冷笑、無視が始まる。私たちは無神論者になる。しかし霊魂の世界から見ると、人間同士が殺し合ったことは兄弟同士が喧嘩し合ったのに等しく、それは兄弟同士の問題であるが、親の問題ではないのである。親はそれが止まることを望んでいる。しかしそれを止められるのは兄弟同士自身なのである。彼ら自身がやめようと願わない限り、争いは終わらない。どちらの肩を持つことも、どちらかだけを止めることも親=神には出来ない。もしそれをするならいつまでも人間という子は成長を見ないだろう。
 これについては悪魔が寸分の隙もない論理で著者を責め立てる。「つい先程彼らに復讐したいと怒りに燃えて望んだのはお前だろう。神は自分の似姿として人間を作ったのではなかったのか。つまりお前は神に敵対しているのだ。それなのに神に助けを請うとは何事だ」
 思うに悪魔は完全無欠の論理そのものなのである。そして恐らく人は決して悪魔の論理を克服することが出来ない(自分が今しも殺される時に、助けを求めないということはあり得ない。助けを求めれば上述の悪魔の論理の前に私たちは自己矛盾を暴かれる)。これが私たちの恐らく原罪なのだ。人間は生来的に非論理的な生き物なのである。ゆえに私たちは悪魔の論理を飛び越えることによって、聖なる非論理の世界に飛び込まなくてはならない。それが「赦す」ことなのである。これはあまりにも非論理的だから「なぜ!?」と私たちは絶句する。しかしこれ以外に私たちが生きる道はない。
 著者は啓示を得る。「全ての人は神の子なのだ。子である人が罪を犯す時、神は泣いている。彼らは自分が何をしているか分かっていないのだ(イエスと同じ言葉だ)。彼らを赦さなければならない。彼らを赦す心の強さを私に下さい」と。
 この気付きに達しただけでもこの本は千巻の書物に値する。しかしその後も何度も著者は殺害される寸前まで追い立てられ、怒りと憎しみと悲しみを何度も掻き立てられる。彼女は親も兄弟も残酷に殺された。友達も殺されたがその友達を殺したのは友達だった。知り合い、近隣、学友、教師、あらゆる人が異なる部族というレッテルで自分たりを殺し尽くそうとしたのだ。どうして赦すことが出来るだろう。彼女は何度も挫けそうになり、しかしその都度、自分の心が浄化されることを神に願い続けた。神はその度に応えて彼女の心を清め、新しい風を吹き込んだ。むしろ彼女に味方する人が激怒した。「なぜ赦すのだ!お前の親を殺したのだぞ」と。しかし彼女は言った。「私が彼に差し出せるものは赦しだけです」と。

 善人であれば神に出会える訳ではないし、著者の両親のように真の善きサマリア人であっても、肉体の次元においては神に守られなかった。しかし著者は両親が人々の記憶に遺した善行によって身元を証明されたり、保護を受けたりする。こうして人の善意や愛や希望は風のように巡って行き着くべき場所に辿り着く。その意味では、人の生は決して無駄にはならないし、無残に殺されたとしてもその人の存在もそれで立ち消えるということは決してない。
 
 改めてこの本を読んで、本当の意味でこれからはもっと自分を清く保ち自分の魂を正しく導きながら生きたいと思った。人生を生きていると、惜しむべき時間に出会うことがある。朝方の光や夕暮れの光、空に浮かぶ雲の陰影を見る時などに、なぜこれを見ずに生きてきてしまったのだろう、この時間に心を奪われずに日々を生きることが出来るなどと思ってしまうのだろうと感じる時があるが、この本はまさにそのような感覚を及ぼす。この本を思い出さず、心の中心に置かずに生きてきたこれまでの日々に私は何かとても大切なものを見落とし続けてきたのではないかと思い、であるゆえにこそ、この本を再び読み終えた今ではその大切なものを得たし、これからも失うことはないだろうと思えるのである。

 こしき選書の筆頭に挙げさせて頂きたいと思う。

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