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#22☆『リトル・トリー』フォレスト・カーター

 自室を改装してアトリエにする際、沢山の本を処分した。その中にこの一冊があった。最近古本屋で見つけて購入した。
 素晴らしい、最高に素晴らしい本だった。なぜあの時、私はこの本を売ってしまったのだろうか?若かったのだろう。
 自伝だと思って読んでいたが、どうやら「自伝的」であるらしい。しかしいずれにせよその幼少期の濃密な体験が物語全体、そして言葉の端々まで緊密に覆っていて、ひたすら感銘を受ける。

「どこかでナゲキバトが鳴いている。長く喉にかかったその鳴き声を山は敏感にとらえ、幾重にもこだまを帰す。そしてそれは山を越え谷を越え、やがて音というよりは遠い記憶のように吸い込まれ消えてゆく」49

 私のような東京生まれ東京育ちの人間がどう逆立ちしたって出て来ないであろう表現。まさにその場所にいて、その音を、その移ろいを日々のこととして体験し続けた人でなければ決して捕らえることの出来ない情景の奥深さ。

「稲妻が光った。青光りする火球が尾根の岩を直撃し、青い火花を空に散らせる。突風に煽られて木々は鞭のようにしなる。低い雲から大粒の雨が斜めに叩きつけるように落ちてくる。蛙でさえ息がつけず、溺れ死ぬ勢いの振り方だ」164

 そうか、蛙だって息がつけなくなるか…そんなことを思い描いたこともない自分に気付く。それでいて、これがどれほどの雨か実感として想像できる辺りが言葉の不思議である。

「秋は自然が与えてくれる猶予の時でもある。滅びゆくもの、死んでゆくものに対して心の整理をするチャンスを与えてくれる。自分がしなくてはならないこと、あるいは今までしないままでいたことも、心を整理していく内に自ずと明らかになる。秋は追憶の、そして後悔の季節であり、ああすればよかった、ああ言えばよかったと思い返す時なのだ」267

 これだって、移ろいゆく時の中で山に暮らし、山の中を歩き続けた人からしか出て来ない洞察であろう。この洞察は「鑑賞」ではない。季節に対して「意味づけ」や評価をしているのではないのだ。生命世界の織り成す循環の風景から、自然の呼吸のように認識を獲得している。私は素直に、羨ましいと思った。今からでも遅くはない、こんなふうに人生を世界を体感できる人間になりたいと思った。

 アメリカ先住民(と白人の混血)の少年リトル・トリー(Little Tree)は両親死後、山に暮らす祖父母の元に引き取られる。そしてそこで沢山の愛情を受けながら、知恵、技術、逞しさ、優しさ、掟、あらゆることを教わっていく。
 祖父母は決して押し付けるように教えない。その交流の根底には愛だけがある。
 こんなふうに。

 祖父が僕を見つめて言った。「なあ、リトル・トリー、おまえの好きなようにやらせてみる、それしかおまえに教える方法はねえ。もし子牛を買うのを儂がやめさせていたら、おまえはいつまでもそのことを悔しがったはずじゃ。逆に買えと勧めていたら、子牛が死んだのを儂のせいにしたじゃろう。おまえは自分で悟っていくしかないんじゃよ」144

 たとえ答えは明らかであっても、それを先回りして教える所に学びはないのだ。そのためにはどれほどの寛容さと信頼が必要だろう。そして教える側にも連綿と受け継がれた知の体系がなくてはならない。「アメリカ先住民もの」の最大の魅力は、やはり何と言ってもその体系の分厚さと奥深さであると思う。それは個人レベルの処世術や人生観とは格が違うものなのだ。
 男女の別は自然と役割分担をさせる。祖父がこの物質界での生き方を教えるのに対して、祖母は精神世界での生き方を教える。

 祖母が言った。「おまえはとっても正しいことをしたんだよ。何か良いものを見つけた時、まずしなくちゃならないのは、それを誰でも良いから出会った人に分けてあげて、一緒に喜ぶことなの。そうすれば良いものはどこまでも広がっていく」100

「誰でも二つの心を持っているんだよ。一つの心は〈体の心〉、つまり体がちゃんと生き続けるようにって働く心なの…でもね、人間はもう一つの心を持っているんだ…それは〈霊の心〉なの。もしも体を守る心を悪い方に使って欲深くなったりずるいことを考えたり人を傷つけたり、相手を利用して儲けようとしたりしたら、霊の心はどんどん縮んでいって、ヒッコリーの実より小さくなってしまうんだよ。
 体が死ぬ時にはね、体の心も一緒に死んでしまう。でもね、霊の心だけは生き続けるの。そして人間は一度死んでもまた必ず生まれ変わるんだ。ところが生きている間ヒッコリーの実みたいにちっぽけな霊の心しか持ってなかったらどうなると思う。生まれ変わってもやっぱりヒッコリーの実の大きさの霊の心しか持てない。だから何も深く理解することは出来ないんだ。それで体の心がますますのさばるから霊の心はますます縮んじゃって、…見えなくなっちゃうかもしれない。
 そうなったら生きている癖に死んでいる人ってことになるの。いくらでも見つかるわ。そういう人はね、他人を見ると何でもケチをつけたがる。木を見ると材木にしたらいくら儲かるってことしか考えない。綺麗なことなんかちっとも頭に浮かばないのさ。
 霊の心ってものはね、ちょうど筋肉みたいで、使えば使う程大きく強くなっていくんだ。どうやって使うかって言うと、物事をきちんと理解するのに使うのよ。…努力すればするほど理解は深くなっていく。
 いいかい、リトル・トリー、理解というのは愛と同じものなの」105

 私はスピリチュアル系の文脈ではなしにこういう知恵の言葉が語られることに比類のない価値を感じる。なぜならそこには血肉がある。
 理解と愛は等しい…言えそうな言葉である。しかし我が身を省みると、全然自分は程遠いと認めざるを得なかった。いつ私はその言葉に心から、体験から、同意できるようになるだろうか。
 おばあちゃんは自分の父親を回想してこう言う。

「父さんはとても深い理解の持ち主だった。きっとまた生まれ変わって、強い魂の、理解の深い人になっているに違いない。私も強くなりたいの。そうすればどこかで出会ったら、父さんと同じくらい深い所で父さんを理解できるはず。私たちの霊が互いに理解し合うのよ。おまえのおじいちゃんもね、自分では気付いていないけれど深い理解にどんどん近付いている。私たち二人はずっといつまでも一緒さ。霊同士が理解しあった仲だからね」110

 何と深い、そして美しい人生観であろうか。
 今回は引用ばかりである。それほど引きたい言葉が沢山ある。
 このような生き方、感じ方はもう過ぎ去った日々のものと思える。この物語の時代でさえ、もうか細いものだった。今はどうだろうか?しかし私は逆に今こそ、と思う箇所を読んだ。
 今私たちはネットのおかげで離れている家族とも友達とも簡単に連絡が取れる。昔は当然、こうではなかった。だから昔の人はその分、よく想った、というようなことは聞く。しかしその制約は、現代の利便性に比べてどうしても「不足分」を強調しているように思えることが多い。ところが次の一節を読んだ時、むしろ「今よりもっと良い繋がり方」があることを、そしてそのつもりになれば今だってすぐに出来ることがあることを教えられた。

「儂の家族はみんな大きな川のずっと向こうにおる。皆と一緒にいられるようにするにはたった一つしか方法がないんじゃ。毎晩決まった時間に蝋燭を灯す。遠くの家族も同じ時間に蝋燭を灯す。こうすると皆の思いは一つじゃから、どんなに離れていたって一緒にいられるんじゃ」264

 

 最近、私はますます霊的な道に人生を整理したいと思っている。この本の登場人物たちはまさしくそのように生きている。彼らのその方法は決して「昔だから出来たこと」ではなかった。昔でさえ、出来ない人には出来ず、しかし望む人には出来たことだった。人間とは本来何者であろうか?そしていかに生きるべきなのか?この問いに対する答えを、有難いまでの息遣いの生々しさで示してくれたこの本に心から感謝する。


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