#211『菊次郎とさき』ビートたけし

 かなり好きな感じの本だった。著者が子供時代を、両親の思い出に寄せて回想する。滅茶苦茶なんだけど、人の絆が感じられる、深い味わいのある本である。
 色々、考えさせられる。著者が育った頃に比べて、今は親子間の愛情とか信頼とか、子供を尊重するとか、自由とか選択肢とか、そういうことがはるかにたっぷりと語られている。でもホイップクリームたっぷりのショートケーキより、素朴なわらび餅の方が美味しくないかというとそんなことは決してないように、著者の振り返る子供時代には「かつてあった、決して間違ってはいないもう一つの在り方」みたいなものを伝えてくれる。
 たけしの(なぜかたけしは絶対に敬称略になる…)母親は、今の基準で言ったら間違いのない「毒親」である。過激すぎて説明できない。母親が言うセリフとしてこの発想があるか!と驚きの連続で、そのレパートリーのない私の頭に入らないのである。まあ「死ね」「金を出せ」みたいなことを平然という人だ。一方で、世話好きで、子供のために後からついていって(または先回りして頭を下げる)ような人でもある。
 やっぱり今の基準だと、一方で子供に苛烈で、一方で子供に過保護となると、子供に依存している・束縛しようとしているやばい親なんじゃないかなあと思いがちだが、そうではない。当時までの親の姿ってそういうものだったんじゃないかなあと思う。見ている先の距離みたいのが、違うのである。子供の「今の喜ぶ顔」よりも、遠い未来の幸不幸を見ている。それならよほどの人格者だろうと思ってしまいがちだけれど、そこが全然そうではない所が、何とも言えず良いのである。
 たけしは母親のことを慕っている、というか、人生観の中心に置き続けている。それを本人は「おふくろには勝てなかった」と言っているけれど、虐待され洗脳されたみたいな精神科が扱う話なのではなく、やはり人生の師匠だったのである。
 師匠というのは良い人である必要は全然ない。優しい必要もない。師匠のたった一つの役割は弟子を育てきることなので、結果として弟子がちゃんとした(何をもってという話は措くとして)人間になるなら、その師匠が厳しかったか優しかったか、善人だったか悪人だったかということは関係がない。この意味において、たけしの母親は完全無欠の師匠であり、親だった。 
 一方、父親は完全無欠のダメ人間であり、これもまた天の配剤のようなものを感じずにいられない。母親が傑物なので、父親がそこそこの人ではバランスが悪いし、これで父親も傑物だったら、多分子供はノイローゼになって死んでしまう。たけしは今更誰が言うまでもなく本物の大物だと思うが、やはり親というセッティングが絶妙なのだなあということにつくづく感心させられる。
 驚き、笑い、しんみりとし、人間というものの幅の広さや温かさを感じ、そして学ぶ所の多い、良書である。

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