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遠藤賢司は最初から遠藤賢司であった――茨城県県北地域で育まれたものと、彼のなかに流れ続けたもの

2017年10月に亡くなって以降もなお、遠藤賢司のスピリットは生き続けている。折坂悠太や南部式、ALKDOのライヴを観ているとそんな思いが湧き上がってくるし、全感覚祭や橋の下世界音楽祭にも遠藤の「自分が生まれた場所で、自分の音楽で、自分の祭りをやるんだよ」(2012年8月27日、DOMMUNEに出た際の発言)という意識が根っこにあるような気がする。

昨年「ユリイカ」の遠藤賢司臨時増刊号でそんな遠藤のスピリットについて書かせてもらった。今読み返すと多少ラフなところもあるものの、現在の自分の思考と繋がるところも多い。そのため、ユリイカ編集部の了承を得て、そのときの記事をnoteに転載させていただくことにした。僕としては遠藤賢司という稀有な存在を通して、茨城県県北の土着性と戦後の歌い手たちの身体性について書いてみたかったところもあるけれど、最終的な結論は「あらゆる創造の本場は自身の魂にあり」という遠藤の言葉に集約されている。

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世に出回っている遠藤賢司のバイオグラフィーの多くは、彼が1947年に茨城県勝田市(現・ひたちなか市)で生まれた事実の次に、1969年にデビュー・シングル「ほんとだよ / 猫が眠ってる」がリリースされたことが記されている。その途中にボブ・ディランとの出会いが挟み込まれている場合もあるし、東京での浪人生活を経て、明治学院大学に進学したことが書かれている場合もある。また、デビュー・シングル以前から同年代のフォーク・シンガーたちと交流を重ねていたことが強調されている場合もあるだろう。そうやってコンパクトにまとめてしまうと、さも茨城の田舎で生まれ育った遠藤がボブ・ディランに憧れてシンガーを志し、仲間たちとの切磋琢磨を経てデビューに漕ぎ着けたという、アメリカをお手本とする当時ありがちなフォーク少年の姿を想像しかねないが、言うまでもなく、遠藤のバイオグラフィーはそんなに単純なものではない。

遠藤賢司は最初から遠藤賢司であった。別の誰かになろうとあがくこともなかったし、自分を必要以上に大きく見せることもなかった。自分自身を唯一のライバルとし、最後までそのライバルと格闘し続けた。自分以外の何者にもなれないことを早々に受け入れ、自身のインナーワールドに対峙し続けてきたとも言える。

遠藤のそんな自意識の形成にあたっては、(遠藤も生前繰り返し話していたように)上京以前に過ごした茨城各地でのさまざまな体験が原点となっている。いくらキャリアを積み重ねようとも、その原点を決して忘れなかったこともまた、遠藤を遠藤賢司たらしめてきた。人間誰しもが成長を積み重ね、社会的にいっぱしのポジションを獲得すると、まだ何も成し遂げておらず、自意識でパンパンになった童貞時代の自分のどうしようもなさを忘却しがちだ。だが、遠藤は違った。何者でもなかった青二才としての自分を最後まで引きずり、生涯をかけてそんな自分を全うしようとした。成熟に向かうのではなく、キャリアを積み重ねるごとに少年時代に戻っていくような、「遠藤賢司」であることにオトシマエをつけるような覚悟を晩年の活動からも感じさせてくれたものだった。生涯最後の楽曲が「GOD SAVE THE BAKATIN」だったことは、そのことを示唆していたようにも思える。

僕はそんな遠藤の原点を知りたくて、茨城時代のことをテーマに生前一度だけ遠藤にインタヴューしたことがある。2013年末、掲載はウェブ版のCDジャーナル。本稿ではそのインタヴューをヒントにしながら、「遠藤賢司」を作り上げたものが何か探ってみたい(注釈のあるものを除き、以下の発言は筆者によるCDジャーナルのインタヴューより)。

上京以前の遠藤は、両親に連れられて茨城県内で7か所ほど引っ越しを重ねている。そのなかでももっとも印象深い地として、彼は生誕地である勝田を挙げている。

太平洋に面した茨城の県北地域は、豊かな里山がいまも点在する一方で、古くから炭鉱や鉱山が開かれてきた地。都心へのアクセスの良さもあって、工業地域としても発展を遂げてきたところだ。遠藤の育った勝田ももともと日立製作所の企業城下町として発展し、戦前から日立製作所の関連工場や飛行場、兵器会社があった。そのため、戦時中はB-29の戦略爆撃も受けたという。1994年11月には海沿いに広がる那珂湊市と合併し、ひたちなか市となった。遠藤はそんな勝田のなかでも、JR常磐線の勝田駅にもほど近い地域の市営住宅で育った。幼少時代は自宅近くのひたちなか市立東石川小学校でこんな体験をしている。

小学校に入る前、近所の東石川小学校に遊びに行ったことがあって、学校ではおにいさんやおねえさんが楽しそうにワイワイしてるんだよね。教室では女の先生が何か演奏しているんだけど、それが何かはわからない。今思い起こすと、あれは足踏みオルガンだった。あまりにも不思議な音だから、夏休みになってその教室にこっそり入って、オルガンを弾いてみたんだ。本当に雷に打たれたような衝撃で、ものすごく興奮してずっと弾いていた。

まるで映画のワンシーンのようだが、「あの楽器を弾いてみたい」というまっすぐな衝動に突き動かされ、思わず小学校に忍び込んで足踏みオルガンを弾いてしまうあたり、やはり「遠藤賢司は最初から遠藤賢司であった」と言いたくなってしまう。同じ頃だと思われるが、遠藤は当時体験した地元の祭りもはっきりと記憶している。

お囃子につられて、御神輿のあとを付いていったんだ。そうしたら、そのまま隣の地区まで行ってしまってね、自分としては大旅行。(中略)御神輿だって昔から代々伝わってきたものだし、参加してる大人の本気度が違った。サッカーの応援で言えば、“長友! なにやってんだ! 腹を切れ!”というような本気度(笑)。

それが何の祭りだったのかインタヴュー時の遠藤も覚えていなかったが、おそらく勝田駅周辺のいずれかの神社の例大祭だったのではないだろうか。那珂湊天満宮の宮御祭礼である「那珂湊の夏祭り(湊八朔祭り)」のように県外でも知られているものではないが、幼少時代の遠藤はそこで演奏される囃子の響きと、神輿を担ぐ大人たちの勇ましい掛け声に心揺さぶられた。

水戸や那珂湊、太田といった茨城の県北地域は、慶長年間から葉たばこの栽培が行われていた地でもある。「水府煙草」とも呼ばれた同地の葉たばこは、水戸藩領北部地帯の特産物としても名高かった。耕作者の高齢化および後継者不足によって生産量自体が減少した現在でも一部の地域では生産が続けられており、茨城は関東でもっとも多くの葉たばこを生産している。とりわけ遠藤が茨城で暮らしていた昭和20年代末から30年代にかけては、水府煙草はまだまだ茨城の県北地域の経済を支える主要農産物のひとつだった。そのため、同地域のあちこちに葉たばこを乾燥させるための小屋があったという。

遠藤によると、当時は農閑期になるとそうした乾燥小屋で歌舞伎が披露されていたらしい。歌舞伎といっても当然東京の名だたる歌舞伎役者がやってくるわけではない。演じるのは田舎周りの一座で、その名を「中村銀之助一座」といった(言うまでもなく、中村勘九郎一門の中村銀之助とは別人)。

村一番の乾燥小屋に中村銀之助一座という旅回りの一座が来たんだね。中村錦之助だと思って集まったおばあちゃんたちが“錦之助じゃなくて銀之助?”って驚いちゃってね(笑)。中村銀之助一座は『伽羅先代萩』という歌舞伎の演目をやっててね。悪役のオジさんが花道で突然大根を出して、股間に“こりゃなんじゃいな?”って突き立てるんだ(笑)。“うわっ、すごい!”と思ってね、舞台の袖に下がるオジさんに付いていったんだ。そうしたら、舞台の裏でサンマをパタパタって焼いてたんだよ(笑)。(中略)乾燥小屋以外でも村芝居をやってたな。お百姓さんたちがキラッキラの格好いい衣装を着て、小屋は丸太を組み立てて作ったようなものだった。いやー、いいものを観たよ。自分にとっては宝物みたいな体験だね。

こうした農民歌舞伎(「地芝居」と呼ばれる)は現在も日本各地で行われているが、僕の知るかぎり、茨城の県北地域では常陸大宮市の「西塩子の回り舞台」など一部の例外を除いて途絶えている。遠藤が地芝居を見た時期というのは、おそらく茨城県県北地域の農村が文化コミュニティーとしての活力を持っていた最後の時代だったのではないだろうか。

ステージ上での遠藤はときたま歌舞伎役者のように見得を切ることがあったが、それは中村錦之助のような大スターを真似たものではなかった。子供のころに好奇の眼差しで見つめていた旅一座の名もなき役者から受けた影響を血肉化し、遠藤そのものの表現として切られた見得でもあった。その背後からは、乾燥小屋に充満する葉たばこやサンマの焼けた香りが漂ってくるのである。

勝田から北に車で1時間、水府煙草発祥の地である常陸太田市赤土町に近い松平町でも遠藤は忘れがたい体験をしている。

そこでは常陸男山っていう日本酒を作っててね。俺も三宅くんっていう造り酒屋の息子の友達がいた。蔵も本当に大きくて、杜氏さんたちが働いていたんだ。みんな寡黙なんだけど、遊びに行くと“おー、ケンちゃん。遊びに来たかい”って優しいんだ。大晦日、除夜の鐘のあと、その杜氏さんたちが蔵のなかで歌うんだよね。うちにいると、遠くから木遣りのような歌が聞こえてくるんだ。要は酒造歌なんだね。彼らはお正月が明けたら、荷物をまとめて地元に帰るんだけど、その前に、“1年がようやく終わったね”って歌を歌うんだ。“なんて綺麗な歌だろう!”と思ったよ。窓から外を見ると霧がかかっていて、その霧の向こうに建つ造り酒屋の蔵の中から男たちの歌。本当にすごい歌。杜氏さんたちは素晴らしい歌手でもあったんだよ。

なんと美しい証言だろうか。霧がかった農村に響き渡る、杜氏たちの酒造歌。言うまでもなくそれは労働歌のようなものであって、誰かに聴かせるために歌われたものではない。「木遣りのような歌」というだけあり、ぶっきらぼうで唸りのようなものだったと想像することもできる。だが、遠藤はその逞しい歌声に特別な響きを聴き取った。遠藤少年にとって、茨城県県北地域は素晴らしい歌とエンターテイメントの宝庫でもあったのだ。

よく知られている話だが、遠藤が最初に書いたオリジナル曲「ほんとだよ」は、雅楽の「越天楽」をモチーフにしている。遠藤がそのメロディーを耳にしたのは、通っていた太田第一高校(常陸太田市)近くの若宮八幡宮。彼は「当時はペレス・プラードも好きだったし、ベンチャーズも好きだったけど、『越天楽』も同じように好きだった。あのメロディーは特に頭に残ったんだね」と話している。

そのように多種多様な影響が共存し、ひとつのコスモロジーを形成しているのが遠藤賢司の歌世界である。地芝居、酒造歌、雅楽、ボブ・ディラン、ドノヴァン、ベンチャーズ、エルヴィス・プレスリー、三橋美智也、島倉千代子、小林旭――茨城県北地域の農村風景とアメリカで同時代に生まれたカルチャー、そしてラジオから流れる流行歌に優劣つけることなく、同じように対峙するなかで遠藤ならではの表現が生まれてきたのだった。

それは一方で、遠藤が高度経済成長期以前の風土のなかで作られたものを引きずっているということでもあるし、農耕や狩猟の記憶を持つ日本人の身体性をそのまま受け入れているということでもある。明治維新以降、急速な近代化/西洋化を進めるなかで、日本人はそれまでのさまざまな風習を否定し、そのなかで作り上げられてきた自身の身体性をも否定してきた。音楽教育の場では西洋音楽の理論を導入し、それ以前の農村で歌われてきたような卑猥で土着的な歌文化を否定した。西洋に源流を持つ舞踊を推奨し、若い男女間の交流の場でもあった農村の盆踊りを否定した。

いまだ西欧になんらかの源流を持つポップ・カルチャーが日本へ輸入される際、そうした否定性が顔を覗かせることがある。70年代末から80年代にかけ、アメリカ経由でディスコ文化が日本に輸入されたときなどは「日本人がディスコを踊っても盆踊りになる」などと揶揄されることがあった。大瀧詠一などは『LET’S ONDO AGAIN』(1978年)などでそうした言説の空虚さを確信犯的につついたわけだし、エボニー・ウェッブなど盆踊り・民謡とディスコを融合しようという試みもあったわけだが、ダンサーたちの多くは稲作の風習のなかで育まれてきた身体性がベースとなった盆踊りや農耕儀礼の振り付けを否定し、ジョン・トラボルタのようなしなやかな動きを目指した(ソウル系ダンスステップのオリジネイターであるニック岡井は盆踊りの振り付けを参照しながら日本人向けにオリジナルのステップを考案したという説もあり、決して単純な話でもないが)。また、一時期までは「日本人がラップをやっても吉幾三かお笑いになってしまう」などと言われたことがあったし、「アメリカのようにゲットーのない日本でヒップホップ文化は根付かない」などと馬鹿げたことを平気でぬかす人もいる。だが、遠藤のスタンスはこうだ――「盆踊りで何が悪い、吉幾三で何が悪い」。そのうえで遠藤は、ボブ・ディランやドノヴァンに対峙しようとするのである。

遠藤の1998年作『もしも君がいたら何んにもいらない』リリース時の湯浅学との対談(掲載は『ミュージックライフ』誌)のなかで、遠藤はマーク・ノップラーと同作に参加した鈴木茂を比較してこう話している。

マーク・ノップラーもずっと聴いてくと、なんか血が違うなっていう部分が相当出てくるし、やっぱ向こうで畳座ったことない生活してるなっていう感じがどっかあるじゃない。(中略)鈴木君の場合はそういうのを全部吸収して、畳の上も吸収して、いい意味で東洋と西洋のミックスができててねえ。

遠藤はこの対談のなかで、演歌~歌謡曲の名曲を支えたギタリスト、木村好夫とニール・ヤングを並べて評し、「ミュージックライフの人にも(木村好夫を)聴いて欲しいよね」と説いている。こうした遠藤の視点は、西欧中心主義的な日本のロック界に対する単純なアンチテーゼとして捉えられかねないが、上の発言から考察するならば、「畳の上で生活してきた自身の身体性をそのまま受け入れる」ということでもある。だからこそ遠藤はマーク・ノップラーを否定しないし、同じようにブルー・オイスター・カルトやMC5、ブルー・チアーも否定しない。

また、先の対談のなかで遠藤はこのようにも話している。

民族的、日本風な音楽とか、民族とかって意識するもんじゃないもんね。でも俺たちが日本人だってことは確かだもんね。これだけは認めなくちゃいけないもんね。根本的なことだと思うよ。

遠藤の思考は決して「日本人」というアイデンティティーと直接結びつくものではないし、「日本的なもの」を美化するものでもない。自分を構成しているものを(あまり認めたくない土着性や情けない部分も含めて)見つめ、受け入れるということ。そこからしか何も生まれ得ないことを説いているのである。

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1980年代後半、遠藤は轟音ギターの弾き語りによる長尺曲に取り組むようになる。その最高峰は、時に1時間近くにわたって演奏されることもあった「輪島の瞳」だろう。遠藤賢司バンドのライヴ盤『不滅の男』(91年)のライナーノーツにおいて、遠藤は「輪島の瞳」をこう説明している。少し長くなるが引用してみたい。

僕は音楽を聞くよりも、本を読む…というより活字を読むことの方が好きです。広辞苑であれSF小説であれ哲学書であれ純文学であれ、そこいら中にある活字という活字を読まずにはいられません。(中略)ある日の事、僕はハタッ!と考えたのです。一番二番三番の歌詞などと言う、今までの既成概念にとらわれぬ短編小説のような長い歌詞+マーシャルのスピーカー二段重ねの音=言音一致の純音楽=アイアン・バタフライのイン・ナ・ガダダビダ=三波春夫の浪曲歌謡=一大ロック長編小説…というものを演奏してみたら、さぞかし心の底から気分がすっきりするだろうと。そしてまず手始めに手掛けた記念すべき長編ロック小説がこの『輪島の瞳』だったのです。

元大相撲力士であり、のちに全日本プロレスのプロレスラーとしても活動した輪島。彼の日本デビュー戦(相手はタイガー・ジェット・シン)をひとつの起点としながら、遠藤は「いつだって初な気持ちで死ぬほど一生懸命やらなきゃ、他人の気持ちなんてものは決して打ちはしない」と輪島へのシンパシーを寄せていく。『不滅の男』に収録されているヴァージョンはトータル25分45秒。同作には遠藤直筆による歌詞も掲載されているが、その筆圧の強さ、込められた情念の深さはただただ圧倒的だ。また、こうした長尺曲(遠藤いわく「長編ロック小説」)は、そのほかにも「史上最長寿のロックンローラー」「俺は寂しくなんかない」などが作られたが、いずれも当時40代だった遠藤のエネルギーを余すことなく注ぎ込んだ名演ばかりである。

これら長尺曲のベースには「既成概念にとらわれぬ短編小説のような長い歌詞」というイメージがあったわけだが、僕の耳には「輪島の瞳」や「史上最長寿のロックンローラー」が浪曲そのもののように聴こえてならない。特に「輪島の瞳」における輪島とタイガー・ジェット・シンの試合に関する詳細な語り口などには、遠藤が子供のころどこかで触れていたであろう浪曲からの影響を強く感じさせる。

ある時期まで日本の芸能の世界には、浪曲や浄瑠璃、講談など語り物の伝統を受け継いだ歌手がいくらでもいた。三波春夫や村田英雄、二葉百合子のように浪曲師としてそのキャリアをスタートさせた歌手は言うまでもないが、幼少時代から母親に浪曲を教え込まれた都はるみや、田舎周りの浪曲師夫婦のもとに生まれた藤圭子のように、浪曲の影響下で自身の歌世界を構築したものもいた。少なくともある時期までの浪曲は日本最先端の芸能だったわけで、多くの歌手が(好き嫌いはともかく)語り物の伝統に対して何らかの知識と理解を持っていたのである。

現在でも、浪曲そのものを内面化した河内音頭や、西日本を中心に各地に伝えられる口説きの文化に語り物の名残りを見ることはできるし、近年浪曲の世界では若手浪曲師も出現するなど、にわかに活況を呈している。だが、そうした古典芸能や演歌・歌謡曲の世界以外には、中世まで遡ることのできる語り物の豊かな伝統を感じさせてくれる歌い手というのは現在ほとんど存在しない。ラッパーたちが語り物の最新ヴァージョンであるかどうかはここで結論を出さないでおくが、僕にはアメリカのロックやブルースから影響を受けたシンガーがそうした伝統を受け継ぐ可能性もあったのではないかと思えてならないのだ。いや、日本のポピュラー・ミュージックはむしろそうした伝統をどこかで意識的に断ち切ってしまったのではないか? ハウリン・ウルフのつもりでガナっても、いつのまにか二代目広沢虎造のようになってしまう。そのことをコンプレックスに思っていたシンガーもきっといたことだろう。

だが、遠藤はある時期までの日本の歌謡界に地下水脈のように流れていた語り物の伝統を自然と受け入れ、40代に入った1980年代後半にそれを「長編ロック小説」という形で蘇らせた。遠藤のなかに「日本の伝統を蘇らせよう」などという使命感があったとはとても思えない。あくまでも自分のなかに流れていたものを見つめ、そのまま表現した結果であって、言ってしまえばファースト・アルバム『niyago』(1970年)の段階から遠藤はフォーク・シンガーであると同時に浪曲師でもあった。

「あらゆる創造の本場は自身の魂にあり」――『詩学』2004年7月号のインタヴューで遠藤はこう話している。この言葉に向かい合うとき、そこには遠藤が敬愛する岡本太郎の姿が浮かび上がってくる。岡本太郎が縄文時代から現代までの視野のなかで「岡本太郎」を表現し続けたように、遠藤は古代から未来へと続く壮大な流れのなかで浪曲師のように物語を語り、琵琶法師のようにギターをかき鳴らし続けたのである。遠藤賢司の永遠の魂に、献杯。(Special Thanks to 田中良明、望月哲、杉本航平、ユリイカ編集部)

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