宇部の気概と結びついた歌――「南蛮音頭」(山口県宇部市)
文・大石始
証言・資料提供:中本義明(宇部南蛮音頭保存会)
宇部の町に降り立つと、大きな煙突からもくもくと蒸気が立ち上る風景が目に入った。明治30年(1897年)に創設された沖ノ山炭鉱を原点とする総合化学メーカー、宇部興産の発電設備の煙突だ。宇部は同社の企業城下町として発展してきた背景があり、そびえ立つ煙突はそのことを誇示しているようにも見えた。
その町の日常風景において何が中心に存在しているのか。山があるのか、海があるのか、あるいは高層ビルがあるのか。風景の中心に存在するものが、その地に住む人々の精神性に無意識のうちに影響を与える。その意味では、宇部の中心は明らかにこの煙突である。町の象徴ともいえるだろうか。
宇部で生まれ育った庵野秀明監督の映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)では、JR宇部線の宇部新川駅が舞台のモデルのひとつとなった。庵野監督の作品には『シン・エヴァンゲリオン劇場版』に限らず工場のシーンがたびたび出てくるが、そうしたシーンの原点には庵野監督が幼少時代に触れていた化学コンビナートの風景があるのかもしれない。
工業都市としての宇部の原点を辿るには、明治以前にまで遡らないとならない。宇部では古くから製塩用に石炭の採掘が行われており、明治に入って長州藩が石炭局を設置して石炭の生産販売を直営するようになると、本格的な採掘が行われるようになった。明治30年(1897年)には宇部市発展の父と呼ばれる渡辺祐策が沖ノ山炭鉱を創業。昭和17年(1942年)に沖ノ山炭鉱、宇部セメント製造、宇部鉄工所などが合併して宇部興産が発足すると、宇部の工業化がさらに押し進められた。なお、同じ年には宇部炭鉱の一部である長生炭鉱で水没事故が起こり、183人もの坑内労働者が命を失っている。宇部の発展が多くの人命を犠牲にして成り立っていることは忘れてはいけないだろう。183人の死者がどのような人々だったのかも含めて。
炭鉱の町としての宇部の歴史と密接に結びついた1曲の歌がある。それが「南蛮音頭」だ。昭和に入って作られたご当地ソングの一種で、もともとは炭鉱で歌われていた「南蛮唄」という労作歌が原型となっている。
「南蛮音頭」「南蛮唄」というと異国の匂い漂うエキゾチックな歌をイメージするかもしれないが、「なんばん」ではなく、「なんば」と読む。「南蛮唄」とは炭鉱から水や石炭を捲きあげるために使われた人力の捲き揚機「南蛮車」を押していたときに歌われていたとされる。労働者たちの力をひとつにするための労作歌の一種というわけだ。南蛮車は天保11年(1840年)に宇部の向田九重郎・七右衛門兄弟が考案したとされていて、九重郎の娘婿が経営する炭鉱で地下水の湧水が多くて困っていたため、兄弟が試行錯誤のうえで考案したのだという。
この南蛮車、当時はかなり画期的な装置だったようで、筑豊など他の炭鉱にも伝えられて大活躍した。当時、新しい技術には「南蛮」という文字があてられることがあったため、南蛮車という名前がつけられのだろう。モダンで新しい可能性を秘めたもの――そうした期待感が、南蛮車という命名には込められているのだ。
「南蛮唄」はあくまでも仕事中の労作歌だったが、昭和4年(1929年)には「南蛮唄」を原型とする「南蛮音頭」が作られる。作曲を手がけたのは藤井清水。町田佳聲と共同で全国の民謡採譜を行ったほか、数多くの新民謡や童謡を作曲した人物である。
このころ、地元を全国へとアピールしようというご当地ソングが各地で制作された。背景には「健全な郷土の歌を作る」という新民謡運動があり、「南蛮音頭」もまたそうした時流に乗ったものと捉えることができる。
そうしたアピールとは単なる観光客誘致だけが目的ではない。地元をレペゼンしようという明確な意識と宇部の地域アイデンティティーがあり、大正期から都心部の寄席で人気を博していた島根県安来市の民謡「安来節」に対する対抗心があった。
さらにはもうひとつの理由として、炭鉱内で歌われていた「南蛮唄」があまり品格に欠けるため、新たな市民歌を作ろうという地元からの声もあった。荒くれものたちの間で歌い継がれていた労作歌の多 くは風紀上よろしくない歌詞(他愛のない下ネタなど)が織り込まれていることが多いが、おそらく 「南蛮唄」もそうした側面を持っていたのだろう。
なお、筑豊の炭鉱労働者たちが歌っていた労作歌をルーツとされる「炭坑節」も似た経緯を辿って作り上げられた楽曲だ。明治末期、炭鉱の貯炭場で歌われていた「伊田場打ち選炭唄」という労作歌を地元の音楽教師がアレンジして「伊田機械選炭節」を作り、さらに編曲した「三弦選炭節」がのちに「炭坑節」として広く浸透していった。そうした歌が筑豊の花柳界で定番化し、昭和7年(1932年)には後藤寺の花柳界で名をなした芸者、長尾イノがレコードにその歌声を吹き込むことになる。
「南蛮唄」は「炭坑節」に先駆けること3年、宇部文芸協会と宇部時報社が歌詞を公募。市井の人々が応募し、集まった歌詞を作詞家の野口雨情がセレクト。いくらか手を加えて完成に至った。
「五平太(ごへいだ)」という言葉が見られるが、これは現在の宇部市船木に住んでいた五平太なるものが石炭を発見したという伝承に基づいたもので、「南蛮音頭」に使われたことでその伝承はさらに広まったと思われる(同様の五平太伝説は肥前の高島、筑豊など九州北部、近いところでは宇部の藤山村など他の地域でも伝えられている)。
今回「南蛮音頭」について調査するにあたって多くの資料を提供し、ひとつひとつの歴史について教えてくれたのが、宇部南蛮音頭保存会の中本義明さんだ。「南蛮音頭」の資料は決して大量に残されているわけではない。中本さんが長い歳月をかけて集めてきたものによって、ようやく「南蛮音頭」を覆っていた霧が晴れたような感覚があった。
宇部生まれの中本さんは中学卒業後から家業である魚屋で働き、現在まで宇部の変遷を見つめてきた。30代になると仕事の傍ら地元の風習を調査するようになり、70歳を過ぎて魚屋を閉めたあと、ふたたび郷土史の調査に本腰を入れるようになった。中本さんはこう話す。
「仕事をやめたあと、何か市の役に立てればと思っていたんですね。そんなときに宇部南蛮音頭保存会が会員を募集してたんです。でも、入ってみたら保存会に何も資料がなかった。図書館に行ってみると炭鉱や宇部の歴史についての資料はたくさんあるんですよ。なのに『南蛮音頭』の資料は何も揃ってなかった。『音楽をバカにするな!』とカチンときましてね、自分で調べ始めたんです」
中本さんは「南蛮音頭」に関する複数の文献に「作詞・野口雨情」と間違って記載されていることにも憤慨する。先にも触れたように、この音頭は公募して集まった歌詞を野口が選び、手を加えて現在のものとなったわけで、クレジットとしては「補作」とするのが正しい。おそらく著名な作詞家が書いたという箔付けのため、意図的にそのように記載されてきたのだろう。
中本さんは歌詞を書いた実際の「作詞者」が誰だったのか、ずいぶん探したという。「でも、結局分からなかった」と、無念の思いを口にする。
見過ごされてきた地元の歴史を調査し、物語を編み直す――。中本さんはそうやって「南蛮音頭」にまつわる調査作業を人知れず、黙々と続けてきたわけだ。「南蛮音頭」のみならず、中本さんの存在自体が地域の宝といってもいいだろう。
中本さんには「南蛮音頭」の貴重な音源の数々も聞かせていただいた。初めて吹き込まれたのは昭和5年(1930年)、浅居丸子によるコロムビア盤。東京出身の浅居は小唄浅井派の家元で、コロムビアの専属歌手であった。その後、「南蛮音頭」は音丸(昭和11年、コロムビア)や今奴(昭和28年、ビクター)など複数の歌い手によって吹き込まれている。
ひとつ重要なのは、かつての宇部には西検(桜町)・東検(老松町)という花柳界があり、花柳界の芸妓たちが「南蛮音頭」と、そのB面に収められていた「宇部小唄」を広めたということだ。中本さんはこう話す。
「山口県には大内文化というものがあったわけで、もともとは上品なところなんですよ。炭鉱の規模が大きくなることで九州など他の地域からやってくる人たちが増えてきて、だんだんガラが悪くなってきた(笑)」
大内文化とは大内氏第9代当主大内弘世(1325年~1380年)が京の都を模倣して街づくりを行ったのを発端とするもので、京都に影響を受けながら独自の文化を築き上げた。そうした気風は、「南蛮音頭」はもちろん、よりしっとりとした風合いの「宇部小唄」のほうに現れているともいえるかもしれない。
なお、中本さんは地元の芸者さんに「宇部小唄」を習った経験があるという。「昭和50年代、当時60代の元芸者さんの歌を収録しました。当時のことについても話を聞かせてもらいましたね」
中本さんのライブラリーには、レコードに吹き込まれたものだけでなく、このように中本さん自身が録音したものも多数含まれている。そのなかにはかつての炭鉱労働者が歌う「南蛮唄」のアカペラもあり、その素晴らしさには言葉を失った。労作歌ならではの荒々しい雰囲気が充満しており、朗々としていて生活の匂いがぷんぷんする。宇部には筑豊や東北から出稼ぎでやってきた労働者も多かったというが、歌声の主はいったいどんな人物だったのだろうか。妄想をかきたてられる歌声である。
2021年11月23日、宇部市西万倉で開催された「こもれび収穫祭」で約1時間ほど中本さんに公開インタヴューを行った。その際、中本さんは三味線を弾きながら、「南蛮唄」「南蛮音頭」を歌ってくださったのだが、その歌声には胸に迫るものがあった。「乾燥して声が出なかった」とご本人は謙遜されるが、宇部の地に長年生きてきた中本さんならではの豊かな味わいがあった。
では、そうした味わいはどうやって生み出されたものだったのか。東京への帰路、ぼんやりと考えるなかで浮かび上がってきたのは、歌の根底にある「生活者としての実感」のようなものが中本さんの歌を特別なのものにしているのではないかということだった。中本さんは70年以上にわたって宇部の地で暮らし続けてきた。魚屋の店主としての矜持はいまだ失われることなく、軽い気持ちで宇部の漁業について尋ねると、中本さんは「南蛮音頭」と同じ熱量で語り始めた。
「宇部の魚はうまいんですよ。温暖化の影響でずいぶん少なくなりましたけどね。3月から4月にかけてマコガレイというのが揚がって、4月の終わりごろはイシガレイ。タコなんかも本当にうまかった」
「南蛮音頭」の歌詞もまた、中本さんのように宇部の地に生きた人々によって綴られたものだった。そして、そうした言葉が宇部の暮らしのなかで歌い継がれてきたことに意味があるのだ。
公開インタヴューの際、中本さんは開口一番、「禁門の変で責任を取った福原越後さんが宇部の領主だったということを知ってほしいんです」と語り始めた。
禁門の変とは元治元年(1864年)、京都から追放されていた長州藩の浪士たちが幕府を相手に市街戦を繰り広げた事件である。長州藩の指揮官は宇部領主の福原越後。長州藩側は撤退を余儀なくされると、福原越後は責任を取って切腹させられた。藩を守るために命を落とした領主の死は藩内の志士たちを突き動かし、やがて維新に向けたエネルギーを生み出していく。
福原越後をはじめとする先人たちが守り、育んできた宇部の地。中本さんは「南蛮音頭」からそうした先人たちのスピリットを感じ取っている。だからこそ、「南蛮音頭」を紹介する公開インタヴューの冒頭で福原越後について語り出したのである。
「こういうご当地ソングを作ったのは山口でも宇部が一番早いと思うんですよ。あと3年もすると県内でもあちこちで作ってるんですけど、宇部が一番早かった。『南蛮音頭』は宇部の誇り、気概とも結びついた歌なんです」
制作されてから100年近い月日が経過しようとしている現在も、「南蛮音頭」は毎年お盆や運動会、11月の宇部まつりなどで踊られている。宇部の気概と結びついた言葉とリズムが、今も人々を鼓舞しているのである。
*本稿の取材は2021年10月から12月にかけて開催された山口ゆめ回廊博覧会『ゆめはくアート巡回プロジェクト』の一環として実施され、BEPPU PROJECTのウェブサイトに掲載された記事を転載したものです。
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