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Aを探す

わたしはAを探している。
Aに話しかけると、彼は困った顔をする。
Aはどこにいるのか。
わたしはAに、「どこにいたんだ?」と聞く。
Bに聞くと、AがC通りにいるのを見たと言う。
Aは、「図書館で本を読んでいた」と言う。
わたしはC通りに向かう。
C通りは、D町とE町を結ぶ県道である。
Aがいなくなった。
時刻は、15時を過ぎたところだ。
わたしはFと手分けしてAを探し始めた。
FはGの方へ、わたしはHの方へ向かった。


わたしはある強制的な枠組みの中にいる(それには、牢獄という比喩がぴったりだ)。その枠組みは、精神と呼ばれる。精神とは、身体的な空虚、欠落のことである。精神は、身体を基体として感性的対象にコミットしているため、現実世界への強い執着がある。身体が感性を介してコミットしている「部分」が「精神」である。(ルイスの様相実在論は、その意味で間違えていない。しかし、彼は精神と身体を転倒して捉える誤謬を犯している。わたしたちの身体は、全ての可能世界の領域に存在し、現実世界に局限されていると考えるのは誤りだ。しかし、逆に、精神は身体を現実世界に拘束しようとする。精神は、身体との相互連関において、現実世界が許す範囲内でしか、諸世界を可能的なものとして描けない。多くの形而上学の誤りは恐らくここにある。自由を表現出来るのは、身体であり、精神はその桎梏でしかない※しかしまた、その意味でカントの倫理学の基底に感性論があることは、カントの意図を考えるのであれば、適切だった)。
精神は、身体性にアクセスすることによって、権力と呼ばれるものを手中にする。
枠組みの外に出るためには、枠組みを作り直す必要がある。わたしの存在は、現実世界とのパースペクティブを前提として成り立っており、それを見失えば、全くの意味不明に陥いる。仮に、枠組みを暴力的に破壊したとしても、すぐに外側から手が入り、新たな枠組みが構成される。「わたし」とは、端的に言って、拘束する精神が身体を基に創作したフィクションだ。
身体に穿たれた穴の形象、穴を開けたものに対する記憶の総体、それこそが「わたし」として規定されるものの全容である。その「わたし」は自己同一性を抜きにすれば、何でもない。自己同一性とは、自分の外にあるもののことである。

マルクス・ガブリエルは、自分が死んでいるということに気づくや否や、「知性的主体」という自らの在り方を、全て反転させるだろう。

#哲学 #デイヴィッドルイス #様相実在論 #カント #マルクスガブリエル

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