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悩む、待つ、呼吸する

卒業まであと一年、新卒として日本の会社に入るのであればあと四ヶ月、自分の未来についての選択をするタイムリミットが迫ってきている気がして、なかなか眠りにつけない夜がフィンランドに帰ってきてから続いていた。

せっかく友達とよく出かけるようになって、純粋に楽しい時間を過ごしているはずなのに、気づいた時には未来を考えてしまって、その自分を幸せにする要素すらも眠りを妨げるものに変換されてしまっていた。

そして今週の初め、その友達が家族に会うためにフィンランドを離れていて、その人からの連絡を待つことが多くなった。そんな時に、「待つことについての本を買っていたよなあ」とkindleを開いてみると、鷲田さんによる「『待つ』ということ」という本がやっぱりあった。

そんなたまたま開いた(kindleでこの表現は正しい?)本に、何かここ最近のもやもやを包んでくれるパートを見つけて、今はほっこりというか落ち着いたというか、何にせよマシな気持ちになっている。(もうすぐ友達が帰ってくるから、それで嬉しいだけかも、ていうか8割はそう。)

その表現がこれ。

〈待つ〉はたしかに期待や予想と連動している。ただ、期待や予想ほどに、現在につなぎとめられてはいない。むしろ時のなかをたゆたい、なりゆきに身をまかせ、ときに偶然に救われ、ときに偶然に裏切られ、そのすべてをさだめとして甘受するという、受動というよりも受容をこととしてきた。〈待つ〉はそういう待機、そういう受容としてあった。

鷲田清一, 2013,「待つ」ということ

この言葉を自分はどう受け取っているのだろう。未来を自分の手でコントロールできるなんていう驕りを捨てること、自分が生きている今に開きそこに漂う可能性を見過ごさないこと、未来はそんな今の積み重ねでしかないこと、物事に対して早急な意味を求めないこと、、、色んなことが頭の中に浮かんでくる。

この言葉の意味だって、すぐに分かるものではないんだろう。ただ、その意味の発酵を許すことができる心の間を、時の間を持てるようにゆっくり呼吸をする。

修論も何とかしないとなあ、でも今は2週間後のキャンプの方が楽しみです。

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