状況が変われば対戦型ネットライムをまたやりたいか?

概要

コラム“対戦型ネットライムをやめた理由”の続き。

勝てないほどの強敵がいない勝敗基準があいまい

これらの二点が解消されればまたやりたいか?

回答

何かのきっかけで誘われれば突発的に顔は出すけれど、またやりたくなる見込みは薄いと思う。

理由1

理由の一つ目は、トピックを罵り合いに限定する必要性があまり感じられないこと。
このあたりの話は、コラム“自由形ネットライムと対戦型ネットライム”などにも書いている。
別に相手を貶さなくても、自由なメッセージを綴りながら対話するだけで十分楽しい。
(罵り合いであることこそが魅力、と考えているライマーとはあまり仲良くなれそうにない)

理由2

二つ目は、誰かに勝った、負けたという相対的な評価に価値を感じなくなってきたこと。
自分の手応え、自己評価によって満足度が決まる。
ちなみに対戦型ネットライムに限らず創作全般にこの傾向があり、作品公開に対するモチベーションも低下している。

理由3

三つ目として、韻哲学の多様性を追求すればするほど、勝敗を判断するのが難しくなってきたこと。
これは判定者として自分の判断に自信を持てなくなったともいえる。

例えば母音一致率が低く連打回数の多い韻と、母音一致率が高く連打回数の少ない韻では、どちらが高得点となるかは難しい。
そこには好き嫌いしかなく、明確な勝敗を付けられないのではないか、と思ってしまう。

所感

ライミングに統一的なルールを設けることで、(大雑把にとはいえ)スポーツのように勝敗を判定可能にしたことは対戦型ネットライムの功績である。
しかし、そのルールは万能ではないので、随時見直していくことが必要。

個人的には、韻の優劣を判断するのは非常に難易度の高い行為だと考えている。
もしかすると、韻を踏むことと同じかそれ以上に。

それゆえに、万人に納得できる統一的な勝敗基準を設けるのは難しい。
もしも対戦型ネットライムを愛する人々がそれを克服できるのなら、見てみたいとは思う。

筆者は対戦型ネットライムに対して否定的なスタンスであるが、そういう韻哲学を示すと同時に、対戦型ネットライムを愛する人々の韻哲学を受け入れられる人間でいたい。※1

(文/SIX)

脚注

※1 残念ながら人間ではなくなってしまったけれど

from 韻韻
最終的に怖っ

関連項目

  • コラム“対戦型ネットライムをやめた理由”

変更履歴

2022.1.24 メールマガジン用に書き下ろし
2023.2.21 note用に改稿

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