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コンクールのこと長く書く

皆さんお疲れ様です!

コンクールが終わって、日常に戻って、
八月になって、
また仕事やめたくなってるぷにさんです。

俺はてめーのゴマスリの道具じゃねえ。

…失礼しました。

いつもなら、Facebookとかインスタに載せる
大会の後の大きなまとめ。
今回はnoteに書いてみます。

きっかけは、彼の快挙だった。

ぷにさんは、南風のマーチの年から
今年の課題曲1の作者と
仲良しになりました。

お手伝いしていた高校のために、
委嘱作品も書いてもらったり、
打楽器に詳しくないから、佐世保から大分まで来てもらったり。
(鹿児島から大分より余裕で来れたらしい。
鹿児島から大分面倒なんだよね意外に。楽しかったけど。)

で、ずっと彼が朝日作曲賞に挑み続けてたことも知っていました。
一年前の六月。
当時の仕事は早朝から昼までで、
早朝職場に着いて、準備してました。
何となく朝日新聞のTwitterを見ていたら、

彼が朝日作曲賞に選ばれたことを知りました。
びっくりして、事務局長にも連絡しました。

その瞬間から

たくさんお世話になった彼の曲が朝日作曲賞に選ばれたなら、
中身によっては演奏して恩返ししたい!

と、うっすら思うようになりました。

そして、少しずつ、曲の全容がわかってきて、
少人数でも演奏できる
(実際うちはほぼ二管編成でした)
古典的スタイルのマーチ、
そして楽譜、音源が発表されて
ど直球古典的マーチ
なことがわかって、しかも親しみやすい
(生半可な練習で親しめる曲とは言っていない)

さらに、元々アンサンブル目的で連盟に加盟していたうちが、
安定して三重奏を組めるようになった仲間が増えた
この子も協力してくれる

そして、渋っていた事務局長も、
4月にみんなの共通の友人が急逝、
さらに関西の友達が「一緒に乗る」って
言ってくれたこと、
これらが決定打になりました。

そして、かなり無理やり、
今年一年限りの企画コンクールに向けて、
人を集めました。
この無理やりの時点で本当は皆さんに
わがままを言える立場じゃなかったのに、
いっぱいわがままを言いました。

それにこたえてくれて、
本番を迎えてくれたこと、
本当に感謝しています

3人の練習場所だった校区公民館が、
「合奏の場所」になりました。

おそらく、出場チーム中年齢層の幅は最厚

まず、事務局長が突然指揮をお願いした
県内の重鎮指揮者は還暦どころかアラ古希です。

そしてメンバーもアラカン数名、
その次の世代が自分含めて二人くらい、
アラサー数名、
20代前半も数名。
学生さんも数名。

極め付けは
事務局長の母校である某高校

高音祭の進行表をみて、
あー、この人数はコンクールに出ないんだろうな、
って話をしたら事務局長が連絡してました。

2年生2人だけの吹奏楽部。
後に後半戦の練習場所になりました。
この2人も、巻き込むことになります。
上白、下黒の安上がり衣装、としてましたが、
当日2人だけ制服姿が混じっていたと思います。

本当に、部活の中の活動としてしっかり、
練習してきてくれて、
メキメキ上達しました、二人とも。
そして顧問の先生にも大変お世話になったし、
最後の片付けの日は
軽音楽部の子たちも手伝ってくれました
(こちらはかなり盛り上がっている模様)

何年か前まではチャラチャラした子が多い印象だったこの学校、
今はすごく礼儀正しい子が多いです。
車ですれ違うと振り返って、ちゃんとこちらをみてお辞儀する生徒さんたち。
ここの吹部にもう一人、
サックスやりたい子が入ってくれたら、
一緒に木管アンサンブル練習出来るのになあ。
夏休みの間に何とか一人集められないものか…


この高校から見える景色は絶景です。

曲目変更

連盟総会の時点で、審査員がわかっていたので、
あえて審査員のお一人の曲を選ぼうとしてました。

しかし、
想定以上の人数が集まってしまい、
フレキシブル譜面で収集がつかなくなってき始めました。
挙句、金管から
吹きっぱなしでしぬ
って声もあがり、
最初はその曲の、小編成版を取り寄せるつもりでいました。
フレキは15000円の購入譜なのに、
小編成版になった途端に
33000円のレンタル…

身銭切るしかないか…とも思っていたところに、

指揮者先生からの
かなり思い切った曲目変更の提案。

少し前に中学Bでかなり流行った、
ちょっとシリアスからのドラマチック路線の元の曲から一転して
アゲアゲの南国ムードたっぷりの曲。

最初言われた時は
「大人でこの曲?!」って正直思いましたが

今では一生忘れない名曲になりました。
ちゃんと取り組んだら
「あ、福島作品のキュンキュンがちゃんとある…」ってなって、
その世界にのめり込んでいきました。

「吹奏楽団らしい」打楽器パート

最初は極端な話、
ドラムセット一台で乗り切らせようと思ってたくらい、打楽器を軽視してました。

ところが、まず他の楽器希望できたメンバーが、
その楽器どころじゃない状態でやってきたのを、
指揮者の先生が「まず課題曲でバスドラやろうか」
ってコンバートを提案して、
すっごくバスドラ真剣に練習してきてくれました。

さらに、気づけば打楽器が二人増え…

今回一番苦労しながら
一番楽しんでいて、なおかつパートとして機能していたのはまぎれもなく打楽器です。
まず、パーリー(正式に決まってなかったけどもう彼がパーリーみたいなもんでしょう)がめちゃくちゃしごでき。
なおかつ他の打楽器も腕がある人ばかり。
なんなら、本業管楽器なのにちゃんと打楽器めちゃくちゃ叩けるって鬼のような人までいた。

あと、打楽器パートみんな仲良し。
個性的なメンバーだらけ。

だからこそ、
直前でコロナで一人打楽器が欠けたこと、
これだけは本当に悔しい。
どうにもならなかったけど、これだけは悔しい。
でも、その彼の分まで残りの打楽器は頑張りました。
感染対策のために本番週木曜日にやる予定だった
パー練は、土曜日午前中に、鬼特訓に変わりました。
3人でローテーションしきったこと、

本当に尊敬してます。
打楽器とその周りだけででも打ち上げ後日やる、
出れなかった彼も一緒に、って。
うちの打楽器は誇りでした。
みんな個性的だったし、
審査員から名指しで褒められたのは
自由曲のティンパニだけだったし。

最後の片付けまで、打楽器は全力でした。

人生で一番胸をはれる「銀賞」

ぷにさん個人のこと。
見事に直前にスランプに陥り、
前日の段階で「あ、これは100%は出せない」って思いました。
でも、せめて80は出すぞ、と決めて、
77くらい出せた気がします。

本番前ですら停滞していた課題曲も、
本番は重くなることなく、
自由曲も魂のこもった演奏になりました。

本番が一番いい演奏だったと思います。

結果は銀賞。
コロナや運営面はともかく、
演奏に後悔はありません。

本当は幹部の三番手とその友達が
表彰式に出る予定でしたが、
友達が無理を押して本番に乗り、
体調不良で帰した方がいいって判断にのり、
ぷにさんと残り一人が表彰式に出ました。

「銀賞」と言われた瞬間、
最低限報われた…と思い、
俺は笑顔でした。
嬉しかったさえあります。

今年の夏のことは
一生忘れないでしょう。

なんなら無事に28日に演奏できたことすらうれしかったです。

不甲斐ない副事務局長でしたが、

みんな本当にありがとう!

さて、8月は
本来の本業である冬に向けて、
ゆるっとモチベーション上げながら
自由に音楽したいと思います!


夏が終わった。

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