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『はるヲうるひと』『波浪の血LEVELⅡ』

『ハルをうるひと』

真っ当

私たちは、誰でも「生きる意味」を探していると思います。自分が生きていることを実感したいし、肯定したいものです。しかし、それがなかなか出来ずに苦しむ。そういうことがあると思います。

架空の島で女郎屋を営む主人公は、女郎の一人が自分の父親の愛人になり、父親はその愛人と心中し、気が狂った母親も同じ部屋で自殺した、と聞かされているようです。

そして、腹違いの弟と妹は父の愛人が産んだ子で、母親を奪った女郎の子である。だから、彼らのことが憎くてたまらない。彼らは、男女の愛によって生まれたのではない。単なる性欲によって産まれてきたに過ぎない。だから彼らの生は「虚ろだ」と言って生そのものを否定するのです。

彼は、父親の仕事であった女郎屋を継ぎます。それは両親への親孝行ではなく、父の愛人となった女郎とそこから産まれた弟妹に対する敵意を表し侮蔑するためだと思います。もう一つは、父と同じように持っている彼自身の性欲でしょう。そして、人間の命は愛のない肉体関係でも誕生する「虚ろ」なものだと証明しているのでしょう。

彼は、美しい女性と結婚し、小学生の女の子がいます。その家庭は絵に描いたような幸せな家庭です。それこそが、「真っ当」なことであり、そういう「真っ当」さを持っていない人間は、皆「虚ろ」だと考えているのです。彼は一方で「真っ当」に強く惹かれます。しかし、その「真っ当」を侮蔑してもいるのです。

でも、登場人物は皆この世には生きてはいます。しかし、彼らは自分の「居所所」を持ってはいないのです。生きてはいますけれど、いつも不安定で、何かに脅えているのです。生きることは、「虚ろ」なことなのです。女郎屋の主人も、内面は自分が憎んで止まない「虚ろ」を抱えていることを、自分でも分っているように思います。

世間で「真っ当」だとされていることも、実は「虚ろ」なことであり、欺瞞があるのだと思います。

彼の母親の最期は、彼が聞かされていたことではないことを、彼が腹違いの妹を強姦した時に腹違いの弟からは聞かされます。そのことを通して、自分の母親と父親は愛し合っていた訳ではなく、二人の愛の結晶として自分が生まれたわけではないことを知るのです。

そして、彼にそのことを知らせることになった、腹違いの弟たち同様、自分たちは「虚ろ」に生きていることよりもっと下の「鼻くそ」だと呻くのです。

しかし、常連になっていたベトナム人がその場にいて、彼に向かって「愛を知らないならば、鼻くそ以下だ」と言います。

最後の場面は、砂浜に於ける女郎の一人とベトナム人の結婚披露宴の場面ですが、上からそれを見ていた精神を少し病んでいる腹違いの妹が兄に「みんな歯に見える」と言い、「歯歯・・・」と笑うのです。

彼らの母親が生前、彼らに向かって「笑え、笑いたくなくても笑え、無理してでも笑え」。そう言っていたことと深い関係があるのだと思います。

「真っ当」とは何でしょう。自分が生きている意味を、人間は何処に見つけるのでしょうか。それは、自己尊厳意識は何処で与えられ、何処で育つのかと関係があると思います。自分が「虚ろ」に生きていると思えたり、「鼻くそ」に過ぎないと思う所に、安心できる居場所は無いと思います。しかし、それでは・・・・


『孤狼の血LEVELⅡ』
侮蔑の目

人間は最初から「一人で生きる存在ではない」と思います。昔の西洋の話ですが、生まれた時から黙っておしめを変え、授乳した10人の子と、その反対に親しく言葉をかけながらおしめを変え、授乳した10人の赤ん坊の成長具合を調べたことがあったそうです。

前者の子は言葉も覚えることなく、感情も育たず、結局死んでしまった。後者の子は、その逆の育ち方をしたことは言うまでもありません。勿論、今はそんな実験はすべきではありません。

先日、女子少年院に入れられている人へのインタヴューを中心にした本を読みました。その中に「放任ではなく放置されている」という言葉がありました。

ニグレクトとは、人間を「放置」することなのでしょう。放置された方はたまったものではありません。その本の中には「加害者は、以前は被害者だった」とありました。

皆、同じ家庭で育ち、同じ親で育つわけではないし、親も親として生まれてくるわけがありません。A家の常識はB家では非常識ということは沢山あります。親自身が自己尊厳意識を持っておらず、父親が子どもに暴力を振るう家、そして母親は見てみぬふりしている家の中で放置された子は、自己尊厳意識など育ちようがありません。

そういう人は、「自分は貴い存在だ」と思い、そうでない人を侮蔑している人を見ると、無性に腹が立つでしょう。

この映画の一人の主役は、自分を侮蔑した目で見る人間は、幼いころのことがフラッシュバックするせいで、親指で目を抉り出してしまうのです。恐るべきことです。彼は在日韓国人である、ということも言われています。

侮蔑は存在の否定です。侮蔑される中に自分の居場所はありません。彼がしばしば口走ることは「死に神がなかなか自分を殺してくれんのじゃ」という言葉です。彼は、死に場所を探しているのでしょう。

何人も人を殺しつつ、死に場所を探している。人を徹底的に否定しつつ、自分を否定し、死にたいと思っている。そんな感じがしました。彼は、生きるために人を殺しているのではない。死ぬために殺している。そう思いました。

自己尊厳意識を持つことが出来ない悲しみ。それは本人にはどうすることも出来ないものなのです。他でもない親から否定され、世間の中に自分の居場所を見つけることが出来ないのです。

そういう人は結構いると思います。世間の中にないとすれば、どこにあるのでしょうか。

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