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『イージ―ライダー』―人間の居場所ー

自由

 
『イージーライダー』は1960年代のアメリカ映画です。私が小学生だった頃です。その頃の私たちにとって、アメリカは所謂「進んだ国」でした。


各家庭に入り始めたテレビを通して、私たちはアメリカのホームドラマを見て富に憧れ、西部劇、戦争ものを見てアメリカに代表される西側文明が優れており、白人が優秀であり、黒人やインディアン(両方とも当時の呼び方)は愚かで狂暴であり、ドイツ人は敵のイメージを植え付けられて行ったのだと思います。


そして、J,F,ケネディ大統領暗殺、その弟R、ケネディ司法長官暗殺、M,L,キング牧師暗殺とつづき、アメリカ社会は銃に代表される暴力が支配しているんだ、と無意識の内に感じていたと思います。気に入らない人物は殺してしまえ、という風潮があったと思います。


イージーライダーという言葉は、アメリカのスラングのようです。映画は私が子ども時代の映画です。ポスターには、ハーレイダビッドソン製の大型バイクにまたがった青年二人が写っていました。それは、いかにもアメリカの「自由」さを体現したポスターでした。

1960年代のアメリカ。それも私たち日本人が知っているアメリカは「自由の国アメリカ」というものでした。それは。長髪、フリーセックス、ウッドストック音楽祭、ロック、ウーマンリヴ、大麻に象徴されます。

しかし、60年代はベトナム戦争の時代であり、日本の基地から北ベトナムを空爆する爆撃機が飛び立ちました。そこには、様々な矛盾があり、それが分断を生み出して行ったように思います。

でも、当時のソビエト連邦に代表されるアンチ共産主義に於いては一致していたように思います。その反共思想の中で「自由」という概念が、重んじられて行ったようにも思います。

「自由」とは、それまで「当然」とされて来た価値観を「破壊」するという側面があると思います。


イージーライダーという言葉は様々な意味をもつスラングのようですけれど、今は「気楽な奴ら」とでもしておきましょう。彼ら二人は、大麻あるいは覚醒剤で大儲けをして、ロサンゼルスからニューオリンズまでバイクで行く旅を始めました。

それはアメリカ南部、所謂「バイブルベルト」とも言われる、超保守的な地域を大型バイクにまたがって旅をすることでした。それ自体が「自由」を表すことでもあります。

彼らの髪型は、今の私たちから見れば長髪でも何でもありませんが、男は髪を伸ばすもんではないという価値観から見れば、ふしだらにして挑発的なものだったと思います。

彼らは旅館にも止まることが出来ず、レストランで注文を取ってもらえないこともありました。そこにたむろしていた若い女たちは彼らに興味しんしんで、男たちは彼らを人間とは見ず「ゴリラ」と仲間内では呼んでいるのです。

そして、男たちは、その場にいた保安官に「群境で彼らに痛い目を食らわせるから」と約束するのです。法も何もあったものではありません。暴力が秩序を作り出し、その秩序は、マジョリティの暴力によって維持されるのです。

彼らの旅の途中で出会ったイカレタ弁護士が、その日の晩に焚火に当たりながら、彼らにこう言います。

「『自由』は、人々に恐怖を与える。君たちは彼らには『自由』そのものに見える。」

その日の晩、手に手に棍棒を持ち乍ら、夜陰に乗じて町の人々がイージーライダーたちを痛い目に遭わせるためにやってきて、ボコボコにしました。その時、恐らくではありますが、頭を棍棒で殴られた弁護士は死んでしまうのです。「自由」は「恐怖」を生み出し、「恐怖」は「殺人」を生み出すのです。

今も世界中で繰り返される紛争とか戦争の根っこにあることは、「恐怖」のように思います。そして、「恐怖」はこれまで常識であった既成の価値観が破壊されることによっても生じるのだと思います。

何からの自由なのか

2人の青年は、オートバイに乗ってその場を立ち去るしかありません。そして、ある町で大きな娼婦の館に行き、娼婦を外に連れ出して肉体関係を持ったようですが、それはわざとぼかしてあるのだと思います。

その場面が始まった時、キリスト教の讃美歌「キリエエレイソン」(主よ、憐れみたまえ)を初め、主の祈りだとか使徒信条の言葉が流れるのです。場違いも甚だしい感じがしました。最初は。

「自由」は「破壊」を伴うと思います。その場合、「破壊」とは既成の価値観を破壊することでした。これまでずっと自己を形成しれきた価値観、常識であった価値観、それを壊さない限り新しい自分にはなれません。

しかし、イエスが十字架に磔にされながら父なる神に祈った言葉は、こういうものでした。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているか知らないのです。」

南部の人々も、自由を謳歌している人々(イージーライダー)も、その点において変わりないのだと思います。自分が何をしているのか、知らないのです。

私たち人間は自分からは「自由」ではないのです。既成の価値観からの自由は、自分の願望や欲望の奴隷になることを意味することが多いような気がします。

映画の最後は、自由に生きる青年を脅すために南部の人が撃った銃弾によって彼らが死んでしまったことを暗示して終わります。

自由の代償

私たちは今現在(2021年9月)新型コロナウイルス感染問題で苦しんでいます。そして、ワクチンを打ったか打たないかを問われてもいます。ワクチンは激しい副反応を起こす場合もありますし、打っても感染する人がでるなど、何かと言われていることも事実です。

打つ自由もあれば、打たない自由もあると思います。

今朝見たニュースでは「パリに自由を」とプラカードに書いた人々が「自由を」と連呼しつつデモをし、警察隊が彼らに催涙ガスを投げ入れたりしていました。

フランス政府が、レストランとかカフェとかスーパーなどに入る時にワクチン接種証明書とか2週間以内の陰性証明書を提出することを義務付ける法律を発布することに、デモは反対しているようです。自由を守るためのデモです。

ウイルスには感染したくない、人に感染させたくはない。しかし、「自由」を奪われたくはない、奪いたくはない。その場合の「自由」とは何なのでしょうか。難しい問題です。


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