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『僕が飛びはねる理由』―人間の居場所ー

マジョリティ マイノリティ

自閉症に関する映画です。原作は『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』というエッセイ集で、30か国で読まれているようです。それだけ、人々の関心があるということだと思います。
 私たちは「障害」という便利な言葉を作り出して、社会のスタンダードから外れている事柄を「害」と感じるものです。
しかし、見えているものが違う、あるいは見ているものが違うということはよくあるものです。たとえば、私と伴侶は20センチの身長差があります。私が冷蔵庫の扉を開けて見えるものは、伴侶のそれとは違うのです。だから「そこにあるじゃない。目の前にあるでしょ」と言われても、そこにはないのです。見えていなければ無いのと同じです。
 また、車に乗っていてしばしば思うことは、こういうものです。助手席に座っている私も、運転席に座っている伴侶も「前を見て」います。しかし、見ているものは全然違うことがよくあります。
 前にあるのは、前の車とか信号とか、曲がり角だけではありません。その他にも様々なものがあるのです。その中で何を見ているかで、何をすべきかが決まってきます。ブレーキを踏むか、アクセルを踏むか、ウインカーを出すか・・・・・
 運転者と全然違うものを見ていた時、運転者の運転が恐怖になります。何を考えているのか分からない人、というものは怖いものです。
 それと同じように「自閉症」という「障害者」も、社会に生きているマジョリティとは全く違うものを見、違うものを聞いているのでしょう。しかし、そのことは大多数の人間(マジョリティ)には分からない。そういうことがあるように思います。
 「分らない」ことは怖いことですから、「障害」と言って排斥したり、排除したりするしかない。そうでなければ、大多数の人のための社会の秩序が保てないからです。
 しかし、私たちは誰も、その「障害」が誰に起るのかを知らないし、何故そういう「障害」があるかを知りません。
 そもそも、そういうことは、私たちには知り得ないのだと思います。でもそういう現象はこれまでも、そしてこれからもあるでしょう。
 ある国では、自閉症児は「悪魔の子」と言われ、その子の親は「悪魔」と言われていました。人間扱いされないのです。人間社会のなかで、恐れと侮蔑の目で見られ続けるのです。時折発する「奇声」は、それも一つの原因かも知れません。
 人間なのに「害」があると言われ、「悪魔」と言われる。マジョリティが作った社会の基準に合わないからでしょう。
 しかし、今は「害」とされ、「悪魔」とされる自閉症(もちろん人それぞれですが)の方も、「人」として生まれ、生きているのです。
 だから、そういう現実を受け止め、自閉症に限らず「~的マイノリティ」の方がいる社会の基準を作らなければいけないような気がします。社会は、マジョリティだけで構成されているわけではないからです。
  私たちではなく、あなたが
 存在を否定され、隔離され、名前も変えさせられ、断種され…ととてつもない差別を受けた人々にハンセン病(「らい病」と言われていた)患者がいます。その家族が社会の中で受けた差別も凄まじいものです。「ものです」と過去形で記せないことは言うまでもありませんが。
 そのハンセン病者の治療に後半生を捧げたと言われる神谷美恵子さんは、こういう言葉を残しているそうです。
「光うしないたる眼うつろに
肢(あし)うしないたる体になわれて
診察台の上にどさりとのせられた癩者よ
私はあなたの前に首(こうべ)をたれる
(中略)
なぜ私たちではなくてあなたが?
あなたは代って下さったのだ
代って人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ」(『生きがいについて』「うつわの歌」より)

多様性と調和


 私たちには分からないことがあると思います。そして、私たちには様々な違いがあります。現代は「多様性と調和」と言われ始めました。
 多様性と調和は、本当に難しいことだと思います。多様性は分断を生み出すものです。バラバラになるということです。そういうことが排斥・排除を生み出すのでしょう。
 「違い」は「分裂」を生み出すとすれば、「調和」は起こり得ません。しかし、この社会は多様性に満ちており、マジョリティの基準で調和を作り出せば、そこいらじゅうで不調和(排斥・排除)を生み出してしまうのではないでしょうか。
 誰しもが人間として生まれ、人間として互いを尊重することが(創造主から)求められているのでしょう。それこそが最も難しいことなのだと思います。しかし、そのことに取り組むことが、私たちに与えられている課題なのだと思います。


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