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中国王朝「則天武后」の奇跡~第十八回「私説総括:牝鶏之晨(ひんけいのしん)」 

本シリーズを通して結局中国は「男性社会」であることを私は学んだ。
 
それを端的に言い表した言葉がある。
 
「牝鶏之晨(ひんけいのしん)」

牝鶏之晨(ひんけいのしん)

「めんどりがおんどりより先に時を告げると国が亡びる」という意味だ。 

それは儒教のはじまりから男を立て女は下がるという考え方で長年根づいて来たものであった。 

女性が権力を握ることを戒めた儒教の教えである。

太宗側室(14歳、634年) 

それは紀元前の儒教のはじまりから男を立て女は下がるという考え方で長年根づいて来たものであった。

高宗側室(26歳、649年)

「則天武后」は持ち前の美貌かつ聡明、そして男も惚れ込むほどの気風の良さを遺憾なく発揮しながらあらゆる手を尽くしこの「男性社会」に挑んだ。

高宗皇后(32歳、655年)

そして、690年に女帝に登り詰め周を建国し以降705年まで15年間敏腕を奮った。

皇帝即位(67歳、690~705年)

中でも人材の登用&育成と対外融和政策転換による交易拡大で唐の最盛期と賞賛される「開元之治」の繁栄の礎を創り上げたことは世界史上に残る女帝治世と評価されてよい。

7~8世紀の東アジア情勢

特に今日の中露首脳はこれに学ぶべきところ大であろう。
 
古代倭国(日本)は663年の白村江の戦で唐&新羅軍に大敗後の国力の立て直しをはかることが出来た。
 
振り返ればこの「則天武后」の対外融和政策転換がなければ「古代日本」建国は成就出来なかったかも知れないのだ。
 
晩年「則天武后」はそのやり尽くしたという達成感であろうか帝位をわが息子に戻し何も刻まない「無字碑」を造営しのち間もなく永遠の眠りにつく。

無字碑

そのいさぎよさはのちの南宋禅の開祖「慧能」を「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」の言葉を発声させ大悟に導いた。
 
誠に鮮やかな最期であり「かくありたい」と願う人も少なくなかろう。
 
以上、本シリーズで「則天武后」の偉大さから学ぶことの多さに改めて気づく私の脳裏をいま爽やかな涼風が駆け抜けて行く。

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