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自然と歴史と旅が大好き!💛杜の都仙台に住んでいます。未来のビジョンも探求します。よろし…

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自然と歴史と旅が大好き!💛杜の都仙台に住んでいます。未来のビジョンも探求します。よろしくお願いいたします。💛写真は2024年元旦の名取市那智が丘から太平洋を眺望する本年「龍年」の初日「那智飛龍権現陽」です。💛 https://note.com/notes

最近の記事

萌える!

燃えよ! 「梵我一如」

    • 私は鯉になりたい!

      池の鯉? それとも五月の鯉のぼり? さー。 あなたは?

      • 森は生命の源泉

        いと涼やかに! 人は森をみるとなぜ心おだやかになるのだろうか・・。 それは生命の進化40億年の海の魚時代への回帰ではないかと私は思う。 海で生まれた魚は多くの海藻にはぐくまれ育つ。 海藻は時に敵から身を守る隠れ場所にもなる。 その海藻は陸上にのぼり樹木となりやがて森へと繁殖した。 一方の魚は両生類⇒爬虫類⇒哺乳類へと進化する。 女性は妊娠すると胎児は子宮の中でこの順に姿を変えて育って行くという。 われらの祖先のサルも永きに渡り森で暮らした。

        • 心身脱落

          五月晴れに新緑が眼にも鮮やか! ふとそよぐ風が心地よい。 新緑が全身をつつむ。 心身が和らぐ。 脱落心身。 心身脱落。

        萌える!

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 私説総括:巨星を育んだ歴史風土

          近現代の古都再生の巨星「山本覚馬」はついに逝った。 ここでその巨星を育んだ歴史風土を振り返ってみよう。 会津は和賀や諏訪と同様に超古代の旧石器時代からの都であった。 https://okuaizu.design/wordpress/wp-content/uploads/2023/04/eedc5d4df1381379db0c4fece3a0920c.pdf それだけ超古代から豊かな自然に恵まれ生きとし生けるものの暮らしやすい地勢と土地柄にあるのだ。 古代大和の

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 私説総括:巨星を育んだ歴史風土

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 近代日本の夜明けに奔走

          覚馬は伸びゆく京都を体感しながら明治25(1892)年に享年65歳でその波乱の生涯を終える。 振り返れば覚馬は幕末に京都に上って以来故郷の会津には一度も戻ることはなかった。 覚馬の人生は正に「近代日本の夜明けに奔走」した波乱の生涯といえよう。

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 近代日本の夜明けに奔走

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 京都府議会初代議長選任

          覚馬の観光開発をも含めたひとつ一つの提言は近現代の京都の礎となって華開いて行く。 これにより覚馬は明治12(1879)年京都府議会初代議長に選任された。 正に京都の人々の信頼が如何に厚かったかうかがえる。

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 京都府議会初代議長選任

          南仙台中田神社「春の例大祭」

          昨日は好天気に恵まれ南仙台中田神社の「春の例大祭」も終日大賑わい。 鮮やかな美しい新緑に包まれる境内の「例大祭」模様をどうぞご覧あれ! 例年演じられる「道祖神神楽」の御由緒は次のとおり何とも深く宮司の御見識が滲む。

          南仙台中田神社「春の例大祭」

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 同志社英学校創設

          やがて覚馬は新島襄のキリスト教主義の学校を創りたいという考えに共感して行く。 覚馬は戊申戦争後京都御所の北にある薩摩藩邸のあった土地を手に入れていた。 この地に覚馬はそれまで禁教であったキリスト教を受け入れ明治8(1875)年同志社英学校(のちの同志社大学)を開校する。 大学の礼拝堂には学校設立に貢献した覚馬の肖像画が飾られた。 日本古来の学校ではなく西洋のことを教える学校を早く創りたい。 覚馬はそれが西洋文化をいち早く受け入れ日本の産業・経済発展に活かして行く

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 同志社英学校創設

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ キリスト教への深い関心

          キリスト教は近世江戸初期から明治6(1873)年までは禁じられていた。 しかし、覚馬は博覧会などで多くの外国人と交流を重ねているうちにいつしかそのキリスト教への深い関心を持つようになって行く。 そんな時に出会ったのがアメリカで洗礼を受けた新島襄である。 新島襄はのち八重の結婚相手となる人物だ。 さて、どうする覚馬・・。

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ キリスト教への深い関心

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 都をどり 

          京都博覧会で評判を呼んだのが「都をどり」である。 その時以来「都をどり」は西洋人を多く呼び込むため劇場型にも工夫され演じられて来た。

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 都をどり 

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 京都博覧会

          海外相手の商売の絶好の機会となったのが明治4(1871)年の「京都博覧会」であった。 覚馬は博覧会の開催にあたり京都を外国人にも開放し積極的に呼び込むことを提言する。 その外国人向けに英語で書かれたガイドブック「京都名所案内」を発行した。 覚馬自らが内容を考え英語を学んだ八重が活字を拾ったという。 京都に来ていただいてお金を落としていただく。 博覧会で国際観光を高めたい。 同時に覚馬は博覧会で京都の職人を刺激し産業も更に活性化させたい狙いもあった。 覚馬

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 京都博覧会

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 雛人形

          京都で雛祭りの文化がすたれたとき覚馬は雛人形の商人にこう言ったという。 雛人形を日本中の人に売っても限度がある。 これをドイツ人に見せたら絶賛していた。 雛人形をドイツに売り込むことを勧めたい。 覚馬は海外を相手に商売を行うことにしたのだ。

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 雛人形

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 西陣織

          同時に覚馬は当時下火になっていた西陣の織物産業の復興にも着手する。 西洋技術を取り入れ品質を更に向上させたことで息を吹き返して行った。 そうして生み出した商品を如何に販売するか・・。 覚馬にはある考えがあった。

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 西陣織

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 新産業創出&振興

          覚馬が前後し学校教育と共に力を注いだのが産業の振興である。 明治3(1870)年に化学研究所「舎密(せいみ)局(京都大学の源流)」を開設した。 外国人を招き西洋化学の研究から石鹸、ガラスや陶磁器などの製品開発を進める。 そして、養蚕場、鉄工場、皮や紙などの工場を次々に設立し京都に新たな産業を生み出して行った。 覚馬はこうして「近現代の京都の生みの親」となったのである。

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 新産業創出&振興

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 日本初「公立新英女学校」開校

          覚馬は「管見(意見書)」で必要性を訴えた女子の教育を実行に移す。 明治5(1872)年京都に日本初の「公立新英女学校」を開校する。 そこでは裁縫や手芸などに加えて英語の授業も実施し当時としては異例の女子教育であった。 このとき覚馬は妹の「八重」を会津から京都に呼び寄せ7年ぶりに再会する。 覚馬は妹の「八重」をこの女学校で新しい時代の指導者として抜擢した。

          会津藩士「山本覚馬」の生涯 ~ 日本初「公立新英女学校」開校