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中臣鎌足~第八回「乙巳(いっし)の変」

鎌足が周到に準備した計画はいよいよ皇極4年(645)6月12日の“三韓の調”において実施されることとなった。

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“三韓の調”とは朝鮮半島の三国(高句麗、新羅、百済)の使者がヤマト政権に貢物をする儀式をいう。

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当日、この計画は中臣鎌足、中大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の5人で執り行われる。

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石川麻呂は上表文の読み上げ、他は刺客となって各々配置に着いた。

ところが、事前打ち合わせた上表文の読み上げが半ばに達しても、襲撃役の佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の両名は怖気づいていっこうに動こうとしない。

焦った石川麻呂がその緊張と不安に手が震え滝のような汗を流す。

それを観た蘇我入鹿が怪し気にのぞき込む。

すると中大兄皇子が咄嗟に剣を抜き突進し入鹿の頭と肩を切りつける。

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襲撃役二人もやっと動き入鹿の足に切りかかり、そして首をはねた。

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入鹿の死を知った父蝦夷は屋敷に火を放ち、翌日「もはやこれまで」と自決し、ここに稲目- 馬子—蝦夷-入鹿と栄華を誇った蘇我氏本家は滅亡する。

これが乙巳の変の顛末である。

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