“北条義時”~第十四回「承久の乱」

先の承久元年(1219)6月の将軍継嗣問題は後鳥羽上皇側にも、鎌倉義時側にもしこりが残った。

承久3年(1221)5月、上皇は“流鏑馬揃え”を口実に北面・西面武士や在京・近国千7百余騎を集める。

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そこで上皇は有力御家人に対し「義時追討」の院宣を発した。

承久の乱の戦闘開始である。

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これを聴きつけ朝敵となった義時は震え政子のもとに駈け込む。

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その時、義時と共に駆けつけた御家人衆へ尼将軍政子の右大将源頼朝以来の“御恩と奉公”の檄文が飛ぶ。

<政子尼将軍“御恩と奉公”の檄文>

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。~吾妻鏡

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これに義時はもとより居並ぶ御家人衆は感涙し奮い立った。

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尼将軍政子の“御恩と奉公”檄文に奮い立った鎌倉軍は次から次へ何と19万の大軍に膨れ上がる。

その勝敗は火を見るよりも明らかであった。

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同年7月、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流となる。

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