中臣鎌足~第七回「神祇官固辞し官僚の道を選択」
ここで鎌足が何故蘇我氏を滅ぼす計略に挑んだか、その意図を探ってみよう。
7世紀半ばの貴族&豪族の子弟たちは、唐では皇帝に権力を集めた律令国家を築き上げていることをみな知っていた。
鎌足は唐に習った新しい国づくりを目指したいと願う。
このため鎌足は世襲の神祇官を固辞した。
国政志向の鎌足は神祇官の道よりも官僚での出世の道を選ぶ。
以上が鎌足の曾孫藤原仲麻呂編纂の“藤氏家伝”による見解である。
が、私の史実の検証によれば、この時点では蘇我入鹿も中央集権制による律令国家の早期形成への思いは同じで、それを急ぎ過ぎたため各豪族から反発を買い、これを鎌足&中大兄皇子が逆手に利用し、次章の乙巳(いっし)の変で蘇我氏を滅ぼすのだ。
したがって、この時点では鎌足&中大兄皇子が皇位継承の主導権を奪うために支障となる蘇我氏排斥にのぞんだとみるのが正しい認識となろう。