簡略マイプロフィール
⭕️0️⃣【簡略マイプロフィール】
上村 彰(Akira Uemura)、石川県金沢市生れ
食と健康「グリーンノート」& 土の音工房「イルカ」代表
「土の音から健体康心」
(土から作られるオカリナや自然な食べ物から、すこやかな体とやすらかな心を)
が モットー
●石川県金沢市を中心に
食と健康のナチュラル ショップ【グリーンノート】を運営し「マクロビ(ビーガン含)酵素料理教室」などを開催。
併設の【土の音工房「イルカ」】で、オカリナ製作・演奏・教室を運営し、温もりのある楽しい空間を広めている。
東北医科薬科大学薬学部を経て、横須賀で7m小型帆船(ヨット)を自作。1980~81年太平洋・トンガ王国往復単独航海から、海や島国の生活を学び、帰国後 学修の広場(塾)の運営を経る。
食アドバイザー上級、国際自然医学会・日本綜合医学会にて学ぶ。土の音普及会発起人。日本自然保護協会自然観察指導員。
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⭕️1️⃣【食と健康】の活動(紹介された記事から)
◆◆石川県金沢市にあるオーガニックショップ 「グリーンノート」 を経営しながら「土の音工房」で オカリーナの製作・演奏者として活躍中の上村 彰さん◆◆
私は、石川県金沢市を中心に ナチュラルライフを広め、アトピーなど慢性病の方には食養を中心とした個別のプログラムによる生活向上を提案しています。1992年には、土の楽器であるオカリーナ製作のため 「土の音工房」を併設。オカリーナ教室・コンサート・福祉活動を実施しつつ、土の音の可能性(心と体の免疫力向上)を研究・普及しています。
◆◆生まれた家は…◆◆
私の生家は、「上村光明堂薬局」を営み、祖父・祖母の時代は、漢方薬も多く、赤薬から風邪予防に有用なキンカン(金柑)まで置いてありました。古い漢方の蔵書は今では貴重な財産です。父の時代になると、化学薬剤が大量に生産され、問屋が次々に新薬をもちこみました。
小学校時代から星の美しさや宇宙の不思議に惹かれた私は、大きな宇宙に在る自分に皆が気付けば、人類が戦争をする理由がなくなるのではないかと思っていました。それが後に環境問題に関心を抱く原点だったのかもしれません。 さらには生きる基盤である食や健康問題に繋がっていったのです。
◆◆進歩と調和がテーマの大阪万博の影で◆◆
私が高校1年の頃、世間では、カドミウム汚染によるイタイタイ病やメチル水銀汚染による水俣病、キノホルムによるスモン病や四日市喘息などの大きな公害問題が表面化。「進歩と調和」を謳う大阪万博も開催されました。しかしその反面、何億人もの飢えに苦しむ人がいるのを知ったのです。
実社会を見て回りたいと金沢から自転車にテントとシュラフを積み、途中、肉体労働のアルバイトをしながら奄美大島へ渡りました。その時わたしは、自然に囲まれた半農半漁の生活や蛇皮線(三線)音楽などの文化に興味を持つ一方、不思議にも歯の悪い人が目につきました。
あとで調べてみると、なんと徳川幕府時代、奄美大島の人々は砂糖の生産労働を強制させられ、広大なサトウキビ畑が開かれた事実があったのです。奴隷貿易船が往来する時代、スペイン・イギリスなど列強国がアフリカから1000万人以上の奴隷を西インド諸島に送りました。そこで砂糖を大量生産して巨万の富を手にしたことがイギリスの産業革命に繋がったといわれ、同時に砂糖の害毒が世界中に広がりました。
急速に拡大した競争社会から環境汚染、そして西洋医学・薬学が推進されるのに反して病気が増加・・・大学の薬学部時代もそんな薬漬け社会に疑問を抱いていたのです。
◆◆ヨットで太平洋を周航(日本~ポリネシアのトンガ王国)◆◆
そのころすでに私は、帆をエンジンに、自然の風を燃料とする手作りヨット(小型の帆船)で、伝統的な暮らしの文化が生きている国へ自主留学(調査・学修)することを脳裏に描いていました。
無一文の自分が実現するためには、ヨットの製作や設計を学びながら働くのが最短だと考え、木工職人(見習)として造船所に弟子入りし、近くに空き地を借りて7mの自家製ヨットを製作するに到りました。
そして自然や海を通して似た想いを抱く仲間の応援のもと、彼らの夢も載せて単身太平洋に出帆したのです。
幼少時に祖母の枕もとで毎晩一寸法師や桃太郎の話を聞いていたからなのか、小さな船で海に出ることには違和感より使命感みたいなものが先行したのかもしれませんね(笑)。
航海中、メジマグロなどが釣れましたが、いつも獲れるわけではありません。魚が獲れたときは、無駄が無いように、刺身で食べた残りを味噌やしょう油に漬け、さらにスライスして干物にしました。 灯油ランプと登山用灯油コンロで生活をし、飛び魚やイカがデッキに不時着すれば幸運!バケツに雨水を採集、同じバケツで用を足します。
伊豆・八丈の島々や小笠原諸島の生活文化などを調べた後、北東貿易風を受けて南東に進み、南太平洋のポリネシア海域に入って最初の目的地 トンガ王国に到着しました。
◆◆トンガでの生活◆◆
トンガに着いて気がついたのはゴミ箱がないことです。自然に還るモノを中心に生活しているから当然のこと。穀物菜食中心で、魚貝類が獲れた日はその日のうちに皆で分け、動物性食品は僅かにも関わらず、体格もよく肉体労働をいといません。まさに伝統的な自然医学・マクロビオティック(食養)が生活に溶け込んでいると感じました。
日本でも食品化学添加物の危険性など、食生活と健康の関係がようやくクローズアップされ、「太っていても慢性病が少ないトンガ王国の人々」について日本の医療調査団が調べていた頃です。
※ところが15年後(1996)、トンガ・サモア・フィジー・NZへ 食環境と長寿の調査に行った時は驚嘆しました。自然に還らないゴミが増えるとともに食生活が大きく変化。 太平洋諸島の多くが世界的な糖尿病の多発地域となっていたのです。トンガで出会った最高齢の方は107歳の女性で、眼鏡をかけずに聖書を読み、日中は孫やひしゃ子を訪ね暮らしていました。 また、サモアの厚生省で調べていただいた最高齢の方は128歳の女性で出生証明書も見せていただきました。 しかし残念ながら、彼女は最も交通事情が悪い地域に住んでおり、お会いする時間がとれませんでした。
これらの調査で見えてきた事実は、健康で活動的な長寿者はその土地の伝統的な食生活スタイルを維持していることです。
◆◆帰帆後の貴重な体験◆◆
1981年に航海から日本に帰帆した後、白山麓の鳥越村にある自然農場で多くを経験し学びました。自然医学・薬方を、佐藤成志先生(自然薬方研究所)に学び、自然環境全般を金沢大学薬学部の木村久吉先生に、ヨーガを岡本之秀先生と木村慧心先生(訳書:魂の科学、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)に、金剛禅(少林寺拳法)を安島隆夫先生に、オカリーナを渡辺直子(故・火山久夫人)先生に、陶芸を佐藤茂先生(越前陶芸村)に・・と、多くを学ばせていただき今があります。
◆◆健康長寿の食生活◆◆
私の恩師、佐藤成志先生は、元国際自然医学会の専門講師として、世界の長寿郷の調査もしてこられました。
現在 茨城県龍ヶ崎の「自然薬方研究所(薬方堂)」を拠点に、薬剤師でありながら化学薬品は一切使わず 食生活指導により、慢性病の方の健康回復において、小児がんから末期がんの医師を自然退縮に導くなど、高い実績をあげておられます。
(薬方堂↓)
https://www.kigusuri.com/shop/yakuhodo/
食物と体の関係については、東洋では昔から当然のように「食べ物が血となり肉になる」と言われてきました。
食べ物と水⇒血液⇒体細胞と移行していくしくみは、森下敬一医学博士によって実証されており、体は食べ物(水を含む)から作られ、食べ物で病気になることも、体質が変わることも、健康を取り戻せることも教えていただきました。動物には本来の「食性」があり、種に応じた「適応食」(主食)があります。 パンダは笹を食べ、コアラはユーカリを食べ、蚕は桑の葉、牛や馬は藁を食べます。ヒトの「食性」から見た「適応食」(主食)は、解剖学からみても 穀物(胚芽付き)と言えます。
しかし、日本一の長寿村で知られた山梨県上野原村の棡原(ゆずりはら)や沖縄は、食環境の変化からすでに過去の伝説となり、50歳代の方が親より早く病気で亡くなる逆転現象が起きました。
空気のきれいな北海道でさえアトピーは多く、コンビニは全国どこでも同じような食品が置いてあります。
私は 「食は環境の濃縮物」 だと考えており、食環境の変化による生命や社会への影響はとても大きいといえます。
◆◆自らの健康を守るには◆◆
予防医学が叫ばれる背景には、莫大な国民医療費が国家存亡の危機をもたらすと憂慮される問題があります。「国は人なり」と言われますが、確かに病人が増えるほど国力が衰えるのは明らかです。
医療費に使う約9割が生活習慣病で、残り1割が細菌・ウイルスなどのうつる病気です。 生活習慣病は自分で防ぐことも、引き起こすこともできますが、西洋医学・対処療法の世界は小さく限界があります。そこで大切になるのが、東洋医学・伝承医学⇒「統合医学」を積み上げてきた歴史的先達の知恵を借りて、自らの健康を守ることです。
一例ですが、金沢大学医学部の女学生からアトピーで困っていると相談を受けました。 ある医師が撮った彼女の血液生態の写真を見ると、赤血球が密に連鎖しており血流が悪いのがわかります。聞くと予想通り砂糖の多い食生活です。
「医学部ではアトピーを治すことを学べず、食事・栄養の教育もないんです」と苦笑し、彼女は私から自然食・自然医学の本を何冊も借りて勉強し、自ら体質改善をしていきました。
◆◆志高き仲間たちと共に◆◆
トンガから戻って大きな回答を得たのは、国際自然医学会会長 森下敬一博士の講演会でした。石川県総支部顧問に、老舗 芝寿司の創業者であり経済界の良心的指導者と云える故・梶谷忠司相談役会長がいました。私は、支部青年部の活動をしながら、自然医学理論・マクロビオティック(食養)を学び、梶谷相談役が個人的に後半生をかけて普及された 玄米発酵食「玄米酵素」にもご縁を頂きました。
私が普及拠点とする「グリーンノート」では、毎月 情熱に溢れ心身共に卓越した ㈱玄米酵素の管理栄養士や健康管理士と共に「食と健康講座」を開催して来ました。
因みに、「グリーンノート」の「ノート♪」には、「音階」や、「香りのノート(香階)」という意味があります。
⭕️2️⃣【土の音(オカリナ)】の活動
◼️オカリナジャーナル第48号より
【土の音・土の詩 ~なつかしい音の出会いから~】
『ピュイーッ、ピィーッ!』遥かなる太平洋に浮かべた小舟で波間を漂っていると、船底の板子一枚を通して海中から懐かしいような澄んだ哀愁を誘う、それでいて明るく爽やかな愛嬌たっぷりの音が響いてきました。
見るとあたり一面イルカの群れ。楽しげに飛び跳ねています。
この音は彼らの声、まさに=いのちの交流音=。
手が届くほどのところに寄って来て、生き物どうしの連帯感を懸命に伝えようとする意志さえ感じます。
…1980~81年、手作りの7mヨットを駆って単身南の島に向け、太平洋を帆走中のことでした。
もう一度あの声が聞けたら…
そんなある日、街中の騒音の中でふと懐かしい澄んだ旋律が私の心に同調しました。それはなんと『土笛』が発する【土の音】だったのです。
たった一握りの土が奏でる『土の詩』から、私たちの母なる大地に発する《いのちの声》が聞こえてくるようでした。
初めてオカリナに出会い、自分の息で音を出した瞬間の感動!
…何かを取り戻したような 内なる発見のような…同じ体験をされた方は多いでしょう。
県下に教室もなく奏者も知らない頃、私が関わる行事を通じて 初めてオカリナの文字が地元北国新聞に出たのは'89年7月、“自然の森のキャンプ”(国際自然医学会石川県支部)で「星とメロディーの夕べ」と称して、星の話とオカリナ演奏や子ども体験会を行った記事でした。
以来自宅の囲炉裏の炭火で自作のオカリナを焼きつつ独学で試行錯誤を繰り返し、新聞社で仲間を募る初の教室もオープンしました。
'95年1月17日午前2時頃、見上げた夜空に大きく輝いていたのはマイナス二等級の木星、《土の音普及会》~土ひとにぎりの革命~発足趣意文を推敲していた時です。
意識が夢の中に埋もれた未明、突然家全体がグラグラと振動…居間の灯油ランプが大きく揺れ、間もなく神戸の灘区にいた父が星になったことを知りました。
これを機に祖父が開いた薬局を かねての念願だった自然食(マクロビオティック)の店にリフォーム。
奥に一畳半の工房スペースを設け「つちのね(土の音)だより」も発行、小さな活動を展開していました。
奇しくもその時期に重なるように大きなご縁を戴きました。1971年収録の 火山 久オカリナ演奏の音源から、CDとして再製作された『土の詩』が世に出た時期の火山 久夫人との出会いです。
何もわからない私が“全国おかり~なの集い”のパンフレットに掲載するCD『土の詩』の広告デザインまで請けることになり、見かねた私をいつも手伝ってくれ 音楽理論から指揮法まで教えてくれたのは、元合唱団指揮者の渡辺 寛さんでした。
夫人の直感力の鋭さにはいつも驚かせられましたが、感ずるところがあったのか'97年のクリスマスに金沢の私を訪ねてくださいました。ひっそりと土笛を作っていることなど言えるわけがありません。
誰にもオカリナを習ったことがない私に、赤々と炭火が輝くいろり端で教えて下さった初めての曲は シューベルトのアベマリアです。その夜は加賀藩お抱えの名湯と伝わる深谷温泉で休んで頂きました。
これをご縁に多くを教わり示唆を受ける他、自家栽培の野菜や漬け物の差し入れまで…私にとって紛れもない恩師です。
前橋土笛の会・アンサンブルによるカザルスホール(お茶の水)での栄えある発表日にお招き頂いたのを機に、多くの火山先生のお弟子さんと出会いました。
一番の愛弟子と知った新井淳子さんのソロ演奏を 発表後のエントランスホールで目の当たりにした感動は今なお鮮明です。
いつかはこの幽玄な土の音の調べを北陸の人たちに聞いてもらい感動を共にしたい!!
実は念願のその日が目前となりました。
12月1日(水)金沢駅前の石川県立音楽堂…と言えば、かの岩城宏之率いるオーケストラ・アンサンブル金沢 発祥の拠点。
♪『オカリナとピアノ・デュオコンサート』(オカリナ 新井淳子 ピアノ 松下展大) が実現します!
音楽堂には、火山 久氏に関する展示と私の拙い作品などがショーケースに鎮座し、皆様のご来場をお待ちしております。 上村 彰(金沢市)
※天から地から 今なお、土笛の音で暖かく語りかけてくれている、新井淳子さんに心からの感謝を込めて!
オカリナジャーナル No.48(2010.11.20 オカリナ通信センター発行)
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