映画『LAMB』の耳標番号、3115について思うところ

さて、映画LAMBにて描かれた問いの一つ、家畜について(ざっくり)。

子供を失った夫婦が異形の羊を我が子として育てる物語。
子供を奪われた親羊は窓越しに子を呼び続ける。
やがて人間の母親は親羊を撃ち殺し、自身も異形により夫を殺される。
そして子供を奪われた人間は立ち尽くすのみ。

殺された親羊が装着していたタグのナンバーが3115。
これの意味するところは聖書31章15節。

主はこう仰せられる、「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞こえる。ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子こらのことで慰さめられるのを願わない」。

子を失った親に関する話、ということでした。

さて、畜産の持つ昏い面、もっとも人々が蓋をしている面ともいえます。
まずは家畜を殺すということ。様々な場面においてタブー視されるこの問題ですが、何が問題かというと食肉の消費に罪悪感が伴うことで産業が停滞することや単純に精神的負荷が大きいこと、哺乳類の殺傷を容認することがなんか倫理的にアレなんじゃないかというフワフワした不安などが問題になっているんじゃないでしょうか。

そしてその下に隠れているのが家畜の親から子を奪うということ。
牛は子離れさせるために親子を引き離すのですが、その際に親子ともども三日三晩鳴き続けます。親は子を呼び、子は親を呼び、やがて親は諦めて、しかし鳴き続ける子牛の喉が枯れ果てることで静かになるのです。

この行為を如何に受け入れるか、肯定するか、納得するか、理解するか、それが畜産の持つ大きな問題なのでしょう。

あまり深刻に悩むと心が潰されてしまいますし、解決を急ぐと過激な愛護思想に傾く危険がある、中々に難しい問いです。
とはいえ思考停止するのは一度芽生えた罪悪感が許さない。誰の言葉も響かない、自分で考えて自分の生き方に合った答えを出さないと気が済まない。そういうものじゃないでしょうか、少なくとも私はそうでした。

しかしあえて個人的な答えを述べるとしたら野生よりマシな生活を提供することで贖罪とする、です。
食肉の罪悪感は人間という強者が家畜という弱者から一方的に奪うため生まれるものだと思っています。ならばその差を埋めるしかない。
天敵の居ない場所で安心して熟睡できるような生活を与え、良質な餌を十分に与え、寄生虫や疾病を防除し、種を保存する。その正当な対価として命を頂く。それが畜産に携わる者として出した一応の答えです。

ゆえにそうでない諸兄姉に関してはこの限りではありません。
ここまで読んだ方々は興味があれば是非LAMBを見て考えてみてください。

忘れてはいけないのは、人生を懸けても答えが出せない問いなど無数に転がっているということです。
そして罪悪感を消すことが必ずしも良いこととは限らない。
私は家畜から命を奪う罪悪感を背負うことでその命を無駄にすることなく済みました。そしてそれを自覚することで奪った命をどう使うか考える、どう生きるかを考える起点としています。

どれだけ思考を巡らせてもそれは動き出すための準備でしかありません。思考は骨、それを基にどう生きるかが肉、身に降りかかる出来事を内臓で消化し日々を積み重ねることで血を巡らせる。
だからこそ骨が据わっていなければ何事も為し得ない。
とんでもねぇ強迫観念ですね。
そして食について思考停止した人間は骨無しだというド偏見も少なからずあります。そんなことないのに。

時間を消費しすぎたのでこの辺で書くのをやめます。
一応答えを持っているとはいえ答えは一つではありませんから考えだしたらキリがないです。親愛なる諸兄姉におかれましても「今日は掃除するぜ…!」と思っていた日に考え事を始める際はお気を付けください。

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