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【短編小説】木曜のビヨンド ver.5

書けなくなった。
言葉が書けなくなったのだ。僕は真っ黒のコートを着て街を歩く。すれ違う人々の隙間をオイル塗れみたいにすり抜ける。白いレースは捨てた。部屋のゲームも漫画も捨てた。ヘッドフォンが恋しい。あれをつけていないと気が狂いそうだった。

今日は、人の目を見て会話するのが苦しい。

約束した訳ではなかったが、僕は定春の家を訪ねた。あいにくの留守。同居のオジサンたちが出てきてくれたので、手土産のシュークリームを渡す。挨拶もそこそこに来た道を戻ることにした。

この曜日はいつもやることがない。講義はいくつか組んであるが、別に受けなかったところで成績に影響はない。あんなもの、あってもなくても一緒だ。何となく登録してしまっただけの講義。大学の、時間。金、頭、真っ白のノート。勉強は苦手だ。学問はもっと厄介。
地下鉄に乗って適当な駅で降りる。よく知らない場所へ行くのは怖いので、何度か行ったことのあるあそこ。近くに寺と水辺のある、あの教会にした。日曜日の人ごみに耐えられない僕にとって、こういう平日の教会は案外悪くない。ここは、とても大切だった人の家族が亡くなった時に来た場所だ。僕にはキリスト教なんて一かけらも分からなかったけど、葬式代わりのミサへ行った。彼が、是非来てほしいと言った時、僕は。心のどこかで来るところまできてしまったと思った。お別れの式ではみんなと一緒に聖書を読み、歌った。洗礼を受けたという彼の名を知り、そのたった二文字の美しさに魅せられた。人前に立つのが苦手な彼が、集まった親族に感謝を述べる。少しだけ泣いた。式が終わり、僕たちは親戚たちに挨拶をしてまわる。帰り際に渡されたスト―ルの群青が、今も暗く深い。

木曜の神は、忘れたかった美しい記憶を呼び覚ます。黒ずくめの僕の茶色い眼が床の赤絨毯を見つめる。汚くはない。聖書を持ち歩く淑女に渡された袋に、数百円だけ入れて目を瞑る。
神など、信じたことはない。
淑女はいつも祈っているのかもしれない。
僕に名前は必要ない。祝福も祈りも要らない。
神は殺しても蘇るゾンビなのか。ヒトはあっけないものだ。

僕は彼に先を越された。

僕がはじめて愛せたかもしれない人だった。
愛しあえる人だった。
何もかも捨てても、あのストールだけは僕の首に巻きついたままだ。
青く、少し短い。小さな僕によく似合う、春の。
諦めの老婆は近くにいるだろうか。聖なるものは何も応えない。

夕方、大学近くのファミレスで定春に逢った。偶然、たまたま、ついうっかり。黒ずくめの僕を見、彼は微笑む。いつも通りなのだ。彼だって僕が素敵な服を着ることはないと分かっていた。フリフリだったりヒラヒラだったり。幻想だ。相席失礼してコーンスープを注文する。基本的に外食は好かない。美味くもないからだ。
「こんばんは」
こんばんは。今更だな。
「ここって、前にネズミ出た?」
出た。先輩がバイト入ってる時に出て、お客さんに見られて休業してた。
「大丈夫?」
虫のほうは出るんじゃないの。
「ウチ、結構出るよ」
知ってる。共存を図ってるって聞いた。ライン引いて、生活地区とゴキブリ地区作ってるって。無理だろ、フツーに。オジサンたち、殺してくれない?
「みんな、駄目っぽい。よく出るから、キリがない」
隣、ラーメン屋だったね。仕方ないね。でも、バルサン焚けよ。直視できる相手なら殺せるだろ、それこそ。
「好きじゃない」
あれが好きな人間がいるか。
「サダくん、シュークリームありがと」
おう、有名なトコのにした。ちゃんと食べたか?
「うん」
エクレアのほうが好き?
「うん」
僕も。



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