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【短編小説】木曜のビヨンド ver.7

(もう春は来ない。僕らはどこにもいない。)
(最盛期は今、だ。いちばんしあわせ)
(どうして死ななかった)

その季節はネジの外れた人間が徘徊するから。夜道は怖い。夕方の
暗がりも十分怖い。さいしょ、僕は定春にそのことを伝えたし、定春もちゃんと聞いてくれた。全然、おかしくない。自意識過剰でもない。みんな、どこかフィクションのように思っていることだ。それは現実に起きる。自殺なんて生易しいもので済むか。
僕と定春の接点はなくなりつつあった。それでも、あの冬の日。定春が言ったことに嘘はないと思う。
「用があっても、なくても。俺が行くよ」
暗い道は一人で歩かなくていい。彼はそう言った。どこで何をしていても、僕が夜道を歩かなくていいように、そうすると言った。おまえこそネジが外れてるんじゃないか。定春は笑わなかった。愛かよ。信じられない。おまえはきっと友情だと言う。僕もそれを望んでいる。けれど、そうでないことくらい僕にだって分かる。分かるさ。ずっと一緒にいたんだ。

「手、つないでいい?」
まるで付き合いたてのカップルのように定春が呟く。春の夜、駅近くのあの池の前で。今日の僕は、彼の手無しには歩くこともままならない。眩暈がする素敵な帰路、僕は何も言えなかった。介護させてすまない。もっと単純になるためには、僕が正真正銘の男でなくてはならない。定春もまた、爛れる必要がある。こういう時、同性同士のほうがよほど楽じゃないかと思うのだ。握り返せないまま、定春の細い手が僕を包む。美しい手だ。ピアノを弾く手のように、文学は繊細で美しい。そっと教えてくれる。定春。あたたかい定春。涙が出そうだ。これから定春のカノジョになる女性に申し訳なかった。

完成した童貞論は改定を経て僕のもとへ届いた。作者からの手渡しだ。いかにも彼らしい物語で、こんな風に誰かを愛せる人間が恋ひとつ知らないことを綺麗だと思える。タイトルはふざけた爆発物だが、中身は純真。キスもセックスも、アナルも要らないのだ。相手を大切に想うからこその行動と、葛藤を伴わない清水を感じた。ただ若いだけの己が、好きだからという理由だけで、愛だけで他人を抱けるものか。街にごった返す野生児たちの本能は批判せず、淡々と憧憬と友愛を語る。この人をしあわせにしたいと思った。この人をしあわせにできるなら、もうなんだっていいと思える。僕のちっぽけなプライドや拭えない規律も些事なのだ。もう、誰かでなくともいい。何か、どこかでもいいから、彼を愛しく抱いてほしかった。

定春。
「寒くない?」
僕はいつも寒いから平気。おまえは? マフラー、貸すよ。
「きみのは短い」
知ってた。
「サダくん。サダくんは、ずっとサダくんでいい」
優しいこと言ってくれるね。おまえはいいやつだ。
「きみがすきです」
(あいしてるよ、定春。)

愛もあつさも片手分で十分だ。体の芯が熱くなることを知っている。心の芯が熱くなって、そうして体の芯も熱くなることを知らない。僕らは片方ずつしか持っていない。今なら、おまえの童貞論に勝てそうだ。処女列伝を書いてぶつけてやろう。
僕は定春の手を握り返す。
定春は僕の顔を見ない。手汗とは、こんなにも不快にならないものだったか。寒いのに怖いほど溢れる。定春。多分これ、セックスより恥ずかしいし緊張するぞ。

ただ、それだけ。明日からも何も変わらない。定春と僕が恋人同士になることはない。それこそ、永遠に。あいつだって分かってて言った。たまに、この日とおんなじ告白をして、僕もそれに応えた。すべての春が巡って、冬が抉られようとしていた。
大学の卒業はあっけない。

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