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【短編小説】木曜のビヨンド ver.1

――親愛なる我が友に捧ぐ

レンブラントはいいよね。格好良い名前で呼ばれるし。誰もレインって呼ばない。ゴッホとかモネとか、変な名前じゃん。フィンセントとかクロードって呼ばれないじゃん。あれ、何でなのかな? 

2限終わりの昼食どき、定春の寝癖が跳ねる。マトモに講義を受けているため、この時間の食堂の席は獲れない。今日は鯛茶漬けの気分だと言っていた定春の願いは叶わないだろう。僕は机に散らばったシャーペンとノートを回収し、教室を後にした。
日差しがあつい。

(モラトリアムは三度ある。一度目はガクセー時代、二度目は新卒時代、そして三度目はすべてを投げ出して人生を考えるとき。)

夏は暑いから嫌いだ。花粉症にとって春は敵、秋もアレルギーがあるから敵。冬生まれのためか、寒い季節だけは嫌いじゃなかった。僕と同じく冬生まれの定春も、やはりおんなじ顔して死にたそうな目をする。二人だけの成りそこないサークル、立派な帰宅部に成長できなかった時間が季節を蝕む。僕は日差しすら嫌いだった。
講義後はいつも定春の下宿先だ。シェアハウスといえば聞こえはいいが、実態は家賃月一万二千円のおんぼろアパート。トイレ有風呂無。居住条件は男性であること。最低限の壁と暖簾で出来ている部屋を思えば、当然だ。部屋を区切る襖も扉もない。プライバシーもクソもない。開け放たれた狭い玄関を抜ければ、西側に四畳半の部屋。東に台所、六畳ほどの部屋。以上である。DKとか、LDKとかはよく分からない。僕が知っているDKは、猿がジャングルを駆け抜けるゲームだけだ。居住者は定春と三十代後半の男性が二人。なんとも不思議な三人暮らし。下手すりゃ親子だな。古びた畳が陽を受けて男臭く燃える夏。近くのバーガーショップで見繕ったアップルパイを土産に訪ねれば、案外歓迎されるものである。
僕はこのひどく汗臭い家のことがそんなに嫌いじゃなかった。

(幸福なモラトリアムは人生で一度きりだ。そもそも幸福の存在がただ一度きりならば、いいやそうだと知っているから、僕は本当にあの時に死んでしまいたかった。大人になんてなるからみんなみんな、いけないのだ。)

おまえは一体、何を定められたのだろう。僕の嫌いなあの季節かい? その傷んだ黒髪の毛先を思う。友人としての贔屓目なしに、彼は美しい男だった。女性も羨むはっきりとした二重瞼に丸く大きな目。顔立ちは関西のアイドルみたいだ。手入れのされていない太い眉毛が潔く、着ている服がいつもボロボロなのがキズ。銭湯には一週間に一度行っていれば良いほうだ。ひどい時は三週間ほど放置されている。夏にそれはやめろよ。定春は大学からの奨学金とアルバイト代で生きているから、あんまり強くは言えないが。幼い頃に父親を亡くした彼は、病弱な母親に育てられてここまで来たという。漫画みたいな、本当の話。不思議なこと(それは文学であったり、星の回転であったり、千年後の男女の恋愛であったり)が好きで、僕と友達になってくれた、ちょっと変わった奴。驚くべきは、あまり女性に興味がないこと。同年代の男が考えるような野生的な想像はなく、非常に清らかだ。手を繋ぐことを神聖な儀式と認識しているような男。何より僕を驚かせたのは、奴自身を慰めたことがない事実である。
僕にはそういったことが完全に空想上の物語でしかないため、上手く説明ができない。が、彼が異常であることだけは分かる。おかしいのだ。おっぱいとか、そういう「お」で始まりそうなステキなことに関心がないのだ。そのくせ、強い童貞について、だとか処女神話、だとかを真剣に語ってくるイカれ具合は持ち合わせている。嘘だろ、おまえ。健全な大学生と呼べないぞ。

「ノート」
なに。
「ノート、何か書いた?」
まさか。
「シャー芯、ある?」
あるよ。板書、何も書いてないし。

僕が講義の内容をノートに書くのはレアだ。面倒くさいし、嫌いだ。そういえば、定春は字も奇麗だった。大人の女性のような字で、得じゃあないか。そう言うと定春は困ったように笑う。今日も自宅のすみっこで。

(なにがかなしくていきなくちゃならないんだ)




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