「白玉パーティー開催のお知らせ」
文/構成:ヤマ文明
1.
子供のころの夏、1ヶ月だけおばあちゃんと生活していたことがある。
弟が産まれる直前、両親もてんやわんやな状況のなかで、幼稚園児だった私は、隣県に住むおばあちゃんの家に預けられることになったのだ。
おばあちゃんは保育園の園長先生だった。
キリスト教保育の園だったこともあり、周りの園児はおばあちゃんを洗礼名にちなんで「バーバラ」先生と呼んでいたので、私も、私のママもバーバラと呼んでいた。
日中は体験入園児童として保育園に通い、夜はバーバラと過ごす。
保育園ではバーバラとはほとんど顔を合わせなかったが、1ヶ月間いっしょに夜を過ごすと、だんだんバーバラのことがわかってくる。
私のママはとにかくなんでも、「きちんとする」ことで子供に接する人だったが、バーバラは真逆だった。
私が来てはじめての夜、バーバラと一緒にベッドで眠ることになった。バーバラはジェット機みたいな音のドライヤーで、ゆるくパーマがかった髪を乾かしながら、ベッドシーツの上にパジャマや肌着をたくさん並べていた。どうやら今日着るパジャマを選んでいるらしい。肌着の白シャツ、薄ピンクのワンピースタイプの上着、黄色い花柄で膝丈までのズボン。そこまで並べて、満足したように他の服を仕舞いはじめたが、私にはあるパーツが足りないように見えた。
「バーバラ、パンツは?」
「いらないよ」
「ダメだよ、ノーパンになっちゃうよ」
「あんたの言うことは違うね。ノーパンで寝ると気持ちいいんだよ」
間髪を容れずそういって、本当にそのまま寝はじめる。
そんなことを誇らしげに言う大人はバーバラがはじめてだった。あまつさえ、「そんなに気にするならあんたもやってみなよ」、みたいなことを言い出すので、子供ながらに変な大人もいるものだなあと思いながら、無視して寝た。
ほかにも「昔話を聞かせてあげる」と言うのに、日本昔ばなしの全エピソード録音カセットテープを順に再生してじっとそばにいるだけだったり(読み聞かせじゃないのか)、7月の初旬に月見をしようと言いはじめ白玉だんごを一緒に作るも、結局出来上がったそばから食べてしまって不発に終わったり。とにかく、バーバラは園長として子供の扱いに慣れすぎたのか、なんなのか。ママのママのくせに、子供と独特な接し方をする人だった。
2.
そんなバーバラが介護施設に入ったのは、私が大学生の時だった。
腰の痛みで入院を繰り返したあとのことで、「しばらくの間ここに入ることになったから」と、住所の連絡があり、真夏のある日、施設にいるバーバラを、ママと私でたずねにいった。
大学生になって実家を離れた私は4年ぶりにバーバラに会うが、ママは仕事帰りや週末に顔を見にくるらしい。最寄駅で集合した後、ママはマップも確認せず、最も陽射しが少ない裏路地へショートカットしながら、あっという間に施設に着いた。
施設のロビーは明るい雰囲気だった。
受付の反対側、訪問家族の待機スペースの壁には、施設のおじいちゃん、おばあちゃんの水色や紺色の水彩画が、ダウンライトの下、ぽつんぽつんと飾られている。その右には、夏らしく「海」の字の習字作品が、「海」、「海」、「海」、「海」…と縦に連なるかたちで壁面に並んでいた。
小学校の廊下を思わせる風景だったが、「海」の字にはどれも年の功で練り上げた手グセが感じられ、見ていて飽きない。丸っこかったり、抉るように跳ねたり。どんな人が書いたのか、文字からわかりそうだ。
そのたくさんの「海」のなか、中央に全くクセのない、恐ろしいほどきれいな楷書の「海」が混じっていた。
「あ、それ、バーバラの字だね。さすが先生だっただけあるね」
受付を済ませたママが後ろから話しかけてきた。確かに左隅に、「バーバラ」…でなく、「バーバラの本名」が書かれていたが、私は全く気づかなかった。この字は、バーバラが私宛に書く年賀状やお年玉に書かれていた字の形とも全然違う、教科書からぬきとったような「海」だった。
そういえば、バーバラは先生だった。そして、ママはその娘で、園の卒業生徒の一人だ。そう考えるとバーバラのこの名前を大きく書くやり方は、署名欄でのママの字の態度とそっくりな気がしてきた。
そして4年ぶりにあったバーバラだったが、ベッドにしっかり座って、腰の痛みに愚痴をこぼしていた。
「あ、そうそう。あそこにあった、『海』、みたよ。きれいだったよ、あの中だと一番上手いよね」
色々近況を話した後、ママが褒めると、バーバラが瞬時に「あ、そう」と返す。多分本当に謙遜でも照れでもなんでもない、本当になんにも思ってなさそうな声色だった。今思えば、たくさんの字を「教える記号」として園児に色々書いてきたであろうバーバラには、「上手い」「上手くない」という基準に自分が置かれるのが、あんまりピンときていなかったのかもしれない。ただ、あの字は本当に今でも忘れられないくらい、きれいな「海」だった。
3.
私たちが施設を訪問した2ヶ月後に、バーバラは天に帰っていった。
バーバラの前夜式では、バーバラが、先生としてどんなに立派だったか、教会での演奏も、園の指導もどれほどお手本になるほど素晴らしいものか、ママたち子供を中学生から海外へ留学させ、育て上げ、どれほど神に愛された人物かが語られた。お世話になったという卒園生や、今の園児も百合の花を捧げにきた。昼からはじまった式だったが、暗くなる直前までずっと、立派なバーバラに献花する人が訪れた。
葬儀のための数日間、私はママと同じ部屋でビジネスホテルを取っていた。バーバラの前夜式が終わって、親族で明日の告別式の打ち合わせを済ました後、一緒に最寄駅のホテルに戻る。
ママは部屋に入るなり、狭いバスタブに直行して蛇口全開でお湯を出し、「パンプスを履いた後は、熱めの足湯に入るといい」「足湯に効果的なマッサージを教えてあげる」といつもの娘向けのレクチャーをしはじめた。
私たちは礼服が濡れないように足の方だけ捲って2人で並んで、バスタブの縁にタオルをかけて座り、しばらく無言で足の指を閉じたり広げたりする運動をやっていたが、私がもう飽きたな、そろそろ出ようかな、というタイミングで急にママが喋りだした。
「私はママになにかしてあげられたのかなぁ」
バスルームは狭くて、小声でもわんわん響く。ここにはママの他に私しかいない。だけど、ママが答えて欲しい人は別のところにいる。
私は結局、なんて返したのか覚えていない。私がバスルームから寝室へ戻ったその後、浴室からはシャワーの音が大きく聞こえはじめた。少しでも足りない言葉を補うために、いつも鞄の中に入れている梨木香穂さんの「西の魔女が死んだ」を、ママの鞄に押し込んだ。
その時はうまく答えられなかったが、私が知っているのは、バーバラもママに対して同じことを思っていたはずだ、ということだ。私に対する不器用な接し方も、今から考えれば、あれはもともと昔のママにしてあげてやりたかったことなのかも、と私は思っている。園の一生徒としてではなくて、家の娘として、きちんとしないで、うまく力を抜く方法を教えてあげたかったのかもしれない。
私にも、いつか両親に対して「何もしてあげられなかった」と感じる日も来るし、逆に「何も受け取れていなかった」と感じる日も来る。それはきっと何を尽くしても確実に来ることだ。だから、その日がいつかを考えるのは良いけれど、それより20年前に誰かがしてくれたことを讃えたい。たとえばキッチンで白玉つくりながら、なんててはじめによさそうだ。